―その640―
●歌は、「印南野の赤ら柏は時はあれど君を我が思ふ時はさねなし」である。
●歌をみていこう。
この歌は直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その621)」で紹介している。
◆伊奈美野之 安可良我之波ゝ 等伎波安礼騰 伎美乎安我毛布 登伎波佐祢奈之
(安宿王 巻二〇 四三〇一)
≪書き下し≫印南野(いなみの)の赤ら柏(がしは)は時はあれど君を我(あ)が思(も)ふ時はさねなし
(訳)印南野の赤ら柏は、赤らむ季節が定まっておりますが、大君を思う私の気持ちには、いついつと定まった時など、まったくありません。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)印南野 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の兵庫県加古川市から明石市付近。「否(いな)」と掛け詞(ことば)にしたり、「否」を引き出すため、序詞(じよことば)的な使い方をすることもある。稲日野(いなびの)。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)さね 副詞:①〔下に打消の語を伴って〕決して。②間違いなく。必ず。(学研)
(注)かしは【柏・槲】名詞:①木の名。「柏木(かしはぎ)」とも。葉が大きく、食物を包むのに用いた。②上代、食物を盛るのに用いる葉の総称。また、食器の総称。(学研)
「干槲(ひがしは)」は、宮中の鎮魂祭や大嘗祭の供神料に全国から献上されたとある。「緋かしは」を「赤らかしは」と懸けたのかと考えたが、「緋色」という言い方は平安以降とわかり、干したカシワ葉の色目をいったのかもしれない。
「時はあれど」「時はさねなし」の対句表現など洒落た言い回しである。
播磨国守であった安宿王は、平城京における宴席の場で、おそらくは宮中の祭祀にも使われたであろう「稲見野のあから柏」を歌って、一層天皇をたたえているのである。
この歌の題詞は、「七日天皇太上天皇皇太后在於東常宮南大殿肆宴歌一首」<七日に、天皇(すめらみこと)、太上天皇(おほきすめらみこと)、皇太后(おほきさき)、東(ひむがし)の常宮(つねのみや)の南の大殿に在(いま)して肆宴(とよのあかり)したまふ歌一首>とあり、左注は、「右一首播磨國守安宿王奏 古今未詳」<右の一首は、播磨(はりま)の国(くに)の守(かみ)安宿王(あすかべのおほきみ)奏(まを)す。 古今未詳>とある。
(注)天皇、太上天皇、皇太后:孝謙天皇、聖武上皇、光明皇太后
安宿王は長屋王の子であり、孝謙天皇、聖武上皇とはいとこ同士、光明皇太后にとって甥という血筋で皇族の一端を担っていた。寛いだ新年の宴席で、即興的に忠誠心の不変を詠っている。
―その641―
●歌は、「家にして我れは恋ひなむ印南野の浅茅が上に照りし月夜よ」である。
●歌碑は、稲美中央公園万葉の森にある。
●歌をみていこう。
この歌は、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その637)」で紹介している。
◆家尓之弖 吾者将戀名 印南野乃 淺茅之上尓 照之月夜乎
(作者未詳 巻七 一一七九)
≪書き下し≫家にして我(あ)れは恋ひむな印南野(いなみの)の浅茅(あさぢ)が上(うへ)に照りし月夜(つくよ)を
(訳)我が家に帰ってから私は懐かしく思い出すことであろうな。昨夜、印南野の浅茅の上に月が皓々(こうこう)と照らしていた光景はまことに見事であったな、と。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)にして 分類連語:…において。…で。…に。▽場所・場合・時などの意を表す。
※なりたち 格助詞「に」+格助詞「して」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
「恋ひむな印南野(いなみの)の」というリズミカルな言い回しは、「照りし月夜」を、「照」に命を吹き込み、静かな月夜であるが、心のうちの高ぶりを効果的に歌い上げているように思うのである。
一一七九歌は、公園内にある「茅月亭」の名碑にも刻されている。
「茅月亭」とは、いなみ野 万葉の森の池のほとりにある、休憩所になっている東屋の名前である。お年寄りが何人か集まって、やや密な状態でもあり、時節柄、東屋の写真は写していない。また機会があれば紹介したい。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
※20230510一一七九歌歌碑入れ替え