万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1333)―島根県江津市都野津町 都野津柿本神社―万葉集 巻二 一三二

●歌は、「石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか」である。

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島根県江津市都野津町 都野津柿本神社万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、島根県江津市都野津町 都野津柿本神社にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆石見乃也 高角山之 木際従 我振袖乎 妹見都良武香

      (柿本人麻呂 巻二 一三二)

 

≪書き下し≫石見(いはみ)のや高角山(たかつのやま)の木の間より我(わ)が振る袖を 妹見つらむか

 

(訳)石見の、高角山の木の間から名残を惜しんで私が振る袖、ああこの袖をあの子は見てくれているであろうか。(同上)

(注)高角山:角の地の最も高い山。妻の里一帯を見納める山をこう言った。(伊藤脚注)

(注)我が振る袖を妹見つらむか:最後の別れを惜しむ所作。(伊藤脚注)

(注)つらむ 分類連語:①〔「らむ」が現在の推量の意の場合〕…ているだろう。…たであろう。▽目の前にない事柄について、確かに起こっているであろうと推量する。②〔「らむ」が現在の原因・理由の推量の意の場合〕…たのだろう。▽目の前に見えている事実について、理由・根拠などを推量する。 ⇒なりたち 完了(確述)の助動詞「つ」の終止形+推量の助動詞「らむ」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意

(注の注)「妹見つらむか」に作者の興奮した気持ちが表れている。(学研)

 

この歌は、題詞、「柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首并短歌」<柿本朝臣人麻呂、石見(いはみ)の国より妻に別れて上(のぼ)り来(く)る時の歌二首并(あは)せて短歌>の前群の反歌二首の一首である。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1271)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

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境内

 江津市HPの「柿本神社の歌碑」には、次のように書かれている。

「ここは『姫御所』と呼ばれていた所で、人麻呂が妻『依羅娘子』と暮らしていたと伝えられています。境内には樹齢800年といわれた「人麻呂の松」がありましたが、平成9年に枯死してしまい、今はその一部が保存されています。

歌碑は昭和44年に建立され、碑文は大阪大学名誉教授犬養孝先生の筆によるものです。

人麻呂の妻、依羅娘子の出生についてはいろいろな説がありますが、その一つがここ都野津町の医師井上道益の娘説です。

姫は「よさみ姫」あるいは「えら姫」と呼ばれ、今でも非常に親しまれています。」

 

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人麻呂の松 説明案内板

 

 境内には、「都津野柿本神社に就いて」という説明案内板が設置されており、祭神は「柿本人麻呂・依羅娘子」となっている。また「依羅娘子の末裔と伝う井上氏によって祀られたという人麻呂依羅娘子の寓居跡(姫御所という)の祠を解体。明治四十三年九月新たに現社殿を造営。」と書かれている。

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都野津柿本神社説明案内安

 そしてコーナーには「つぬの里(萬葉のころ、この地方は「つぬの郷」とよび、人麻呂と依羅娘子縁りの地として伝えられている)」の説明碑が建てられている。

 

 益田市江津市大田市の万葉歌碑巡りをしている時は、まだ「水底の歌 柿本人麿論」(梅原猛著 新潮文庫)を読んでいなかったので、万葉の時代の人麻呂と依羅娘子の睦まじい生活の場がここであったのかと感慨ぶかく境内を見わたしていたのであった。

 しかし、同著を読んでから、柿本人麻呂流人説という見方があるという衝撃を受けたのである。

 「別れ」ということで仲睦まじかった故に、人麻呂も一三二歌のような男としては未練たらたら的な歌を詠ったのだろうと考えていたが、同著から「死を覚悟した別れ」とみてくると、歌の響きが全然違ってくる。

 長歌一三一歌の結句「靡けこの山」のトーンが全然違うのである。読み返すたびに「靡けこの山」の悲痛な叫び度合いがアップしてくるのである。

 

 同著の「・・・人麿の入水の事実は覆いがたい。・・・人麿は死後まもなく神に、しかも水に関係のある神になっていることを知った。『古今集』仮名序において、人麿は『ひじり』と呼ばれ、・・・そのころ、すでに人麿は人ではなく神であったのである。そして、日本において死後まもなく神になるのは、ほとんど非業の死をとげた人であった。非業の死をとげた人の復讐が、怨恨が恐ろしいので、その亡霊をなぐさめ、怨恨を押さえるためにそのような人を神と祀る。そして、そのような人を聖化する名を死後その人に贈るのである。」という箇所ならびに、一三一、一三二歌に関して「歌は、女に別れて都に行く男の悲しみを歌っている。その悲しみは異常である。しばらく同棲した現地妻と別れる、それはたしかに悲しいことである。しかし、そういう場合、悲しむのは、男の方より、むしろ女の方である。男の方は悲しいにはちがいないが、長い地方ずまいを終えて、都に帰れる期待にどこか心ウキウキするものである。・・・」の箇所は強烈に頭に残っている。これをベースにおいて歌を詠み返すと流人説の納得性が高まってくる。

 

 石見相聞歌、鴨山五首については、様々な論が展開されているが、まだまだこれだという自分の判断を下すには、万葉集の存在が余りにも大きいことを知ったばかりである小生には荷が重すぎる。何度も書いているが、一歩一歩前進しかないのである。

 近づけば遠ざかる万葉集ではあるが・・・。

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「つぬの里」説明案内碑



 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論 上下」 梅原 猛 著  (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「江津市HP」