万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1881~1883)―松山市御幸町 護国神社・万葉苑(46~48)―万葉集 巻十一 二四六八、巻六 九一九、巻十四 三四五九

―その1881―

●歌は、「港葦に交れる草のしり草の人皆知りぬ我が下思ひは」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(46)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂歌集)

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(46)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆湖葦 交在草 知草 人皆知 吾裏念

         (柿本人麻呂歌集 巻十一 二四六八)

 

≪書き下し≫港葦(みなとあし)に交(まじ)れる草のしり草の人皆知りぬ我(あ)が下思(したも)ひは

 

(訳)河口の葦に交じっている草のしり草の名のように、人がみんな知りつくしてしまった。私のこのひそかな思いは。(伊藤 博 著 「万葉集三」 角川ソフィア文庫より)

(注)しりくさ【知り草・尻草】名詞:湿地に自生する三角藺(さんかくい)の別名。また、灯心草の別名ともいう(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)上三句が序。「知り」をおこす。(伊藤脚注)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1110)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その1882―

●歌は、「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(47)万葉歌碑<プレート>(山部赤人

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(47)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆若浦尓 塩滿来者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡

      (山部赤人 巻六 九一九)

 

≪書き下し≫若(わか)の浦(うら)に潮満ち来(く)れば潟(かた)を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る

 

(訳)若の浦に潮が満ちて来ると、干潟(ひがた)がなくなるので、葦の生えている岸辺をさして、鶴がしきりに鳴き渡って行く。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)長歌の「風吹けば白波騒ぎ 潮干れば玉藻刈りつつ」を承け、満潮時の景を述べて結ぶ。(伊藤脚注)

 

 九一七(長歌)と九一八、九一九歌の歌群の題詞は、「神龜元年甲子冬十月五日幸于紀伊國時山部宿祢赤人作歌一首幷短歌」<神亀(じんき)元年甲子(きのえね)の冬の十月五日に、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時に、山部宿禰赤人が作る歌一首幷せて短歌>である。

(注)神亀元年:724年

(注)幸(いでま)す時:聖武天皇行幸(10月5日から23日まで)(伊藤脚注)

 

  九一九歌については、反歌のもう一首九一八歌とともにブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その734)」で紹介している。長歌(九一七歌)については、「同(その733)」で紹介している。いずれも和歌山市和歌浦中 玉津島神社境内にある歌碑である。

 

 反歌(九一八、九一九歌)

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

長歌(九一七歌)

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

―その1883―

●歌は、「稲搗けばかかる我が手を今夜もか殿の若子が取りて歎かむ」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(48)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(48)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伊祢都氣波 可加流安我手乎 許余比毛可 等能乃和久胡我 等里弖奈氣可武

      (作者未詳 巻十四 三四五九)

 

≪書き下し≫稲(いね)搗(つ)けばかかる我(あ)が手を今夜(こよひ)もか殿(との)の若子(わくご)が取りて歎かむ

 

(訳)稲を搗(つ)いてひび割れした手、この私の手を、今夜もまた、お屋敷の若様が手に取ってかわいそうにかわいそうにとおっしゃることだろうか(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)かかる我が手:あかぎれのできる私の手。これも、女ののろけ歌か。(伊藤脚注)

 

 東歌には、このように東国の農庶民の「働いている」様と恋模様を詠っている歌が多い。

 

 これまでは、学校で習った東歌とは、歌謡、民謡をベースとした農庶民の歌で、素朴な日常的な歌や、歌垣で詠われるようなやや刺激的な意味合いも持った特徴あるという知識しかなかった。しかし、「文字」の世界とおよそかけ離れた世界の農庶民がこのような歌を作れる才があったであろうか。しかも五七五七七という短歌形式に応じた歌を残せたのであろうか。東国の訛りや方言も織り込まれているのも東歌の特徴ではあるが、それを組み込んでの五七五七七形式にまとめるのは相当なものであるとも考えられる。さらには、巻十四という一つのまとまりをもっているのはなぜなのだろうといった疑問が浮かんでくる。

 

 これについては、神野志隆光氏は、その著「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字の世界」(東京大学出版会)に次の様に書いておられる。

「『万葉集』にとって大事なのは、東国の在地性を帯びた歌があるということです。その歌が民謡か創作歌かは問題ではありません。要は、東国にも定型の短歌が浸透しているのを示すということです。それは中央の歌とは異なるかたちであらわれて東国性を示しますが、東歌によって、東国までも中央とおなじ定型短歌におおわれて、ひとつの歌の世界をつくるものとして確認されることとなります。そうした歌の世界をあらしめるものとして東歌の本質を見るべきです。それが『万葉集』における巻十四なのです。その点で、『(東歌の)特異性は貴族的なるものとの対比においてではなく、そこに包摂された状態で存在するのである』と、品田悦一『東歌・防人歌論』(≪セミナー 万葉の歌人と作品 第十一巻 東歌・防人歌/後期万葉の男性歌人たち)2005年、和泉書院)のいうことが、端的に本質をいいあてています。」

方言要素は、東歌にとって必須であり、巻十四は、在地性を示すために訛りや方言を記載するために一字一音とし、中央の言葉と異なる歌において定型短歌の浸透を証したという。「その方言要素の本質はよそおいである」とも書いておられる。

 

 歌垣は、今日風にいえば、恋のバトルである。一生の問題でもある。一般的な名もなき人の生活に根付いた歌は、世の人の心を打つ。それは今も昔も変わらないのである。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」