万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1878~1880)―松山市御幸町 護国神社・万葉苑(43~45)―万葉集 巻三 二五六、巻十四 三七一七、巻二十 四四五五

―その1878―

●歌は、「笥飯の海の庭よくあらし刈菰の乱れて出づ見ゆ海人の釣船」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(43)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(43)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆飼飯海乃 庭好有之 苅薦乃 乱出所見 海人釣船

   一本云 武庫乃海能 尓波好有之 伊射里為流 海部乃釣船 浪上従所見

     (柿本人麻呂 巻三 二五六)

 

≪書き下し≫笥飯(けひ)の海(うみ)の庭(には)よくあらし刈薦(かりこも)の乱れて出(い)づ見ゆ海人(あま)の釣船(つりぶね)

   一本には「武庫(むこ)の海船庭(ふなには)ならし漁(いざ)りする海人の釣船波の上(うへ)ゆ見ゆ」といふ

 

(訳)笥飯(けい)の海の漁場は風もなく潮の具合もよいらしい。刈薦のように入り乱れて漕ぎ出ているのが見える。たくさんの漁師の釣船が。

(一本の訳)武庫の海、この海は漁場であるらしい。漁をする海人の釣船が波の上に群れているのが見える。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)笥飯(けひ)の海:淡路島西岸一帯の海(伊藤脚注)

(注)海の庭:海の仕事場。ここは漁をつる海。(伊藤脚注)

(注)かりこもの【刈り菰の・刈り薦の】分類枕詞:刈り取った真菰(まこも)が乱れやすいことから「乱る」にかかる。(学研)

(注)武庫の海:西宮市から尼崎市にかけての海。(伊藤脚注)

(注)船庭:海の漁場。(伊藤脚注)

 

 二四九から二五六歌の題詞は、「柿本朝臣人麿羈旅歌八首」<柿本朝臣人麻呂が羈旅(きりょ)の歌八首>である。

 二四九から二五二歌までが往路、二五三から二五六歌四首が帰路の旅情を詠っているのである。

 この八首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その561)」で紹介している。

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―その1879―

●歌は、「上つ毛野伊奈良の沼の大藺草外に見しよは今こそまされ」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(44)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂歌集)

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(44)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆可美都氣努 伊奈良能奴麻乃 於保為具左 与曽尓見之欲波 伊麻波曽麻左礼  柿本朝臣人麻呂歌集出也

       (柿本人麻呂歌集 巻十四 三四一七)

 

≪書き下し≫上(かみ)つ毛(け)野(の)伊奈良(いなら)の沼の大藺草(おほゐぐさ)外(よそ)に見しよは今こそまされ 柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ

 

(訳)上野の伊奈良(いなら)の沼に生い茂る大藺草(おほゐぐさ)ではないけど、ただよそながら見ていた時よりは、我がものとした今の方が思いがつのるとは・・・。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)上三句は序。下二句の譬喩。(伊藤脚注)

(注)おおゐぐさ【大藺草】〘名〙: 植物「ふとい(太藺)」の古名。

 

 大藺草を遠くから眺め愛しい人に喩えているのである。

 「大藺草」が詠まれた歌は万葉集ではこの歌のみである。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1107)」で紹介している。

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―その1880―

●歌は、「あかねさす昼は田賜びてのぬばたまの夜のいとまに摘める芹これ」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(45)万葉歌碑<プレート>(葛城王

●歌は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(45)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆安可祢佐須 比流波多ゝ婢弖 奴婆多麻乃 欲流乃伊刀末仁 都賣流芹子許礼

       (葛城王 巻二十 四四五五)

 

≪書き下し≫あかねさす昼は田(た)賜(た)びてぬばたまの夜のいとまに摘(つ)める芹子(せり)これ

 

(訳)日の照る昼には田を班(わか)ち与えるのに手を取られ、暗い夜の暇を盗んで摘んだ芹ですぞ、これは。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)田(た)賜(た)びて:田を班(わか)ち与えるのに手を取られ。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1213)」で、この歌に報(こた)えた薩妙観命婦の歌とともに紹介している。

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 題詞は、「天平元年班田之時使葛城王従山背國贈薩妙觀命婦等所歌一首 副芹子褁」<天平元年の班田(はんでん)の時に、使(つかひ)の葛城王(かづらきのおほきみ)、山背の国より薩妙観命婦等(せちめうくわんみやうぶら)の所に贈る歌一首 芹子(せり)の褁に副ふ>である。

(注)天平元年:729年。この十一月に平城京畿内の班田司が任命された。

(注の注)【班田収授の法】:律令制で、人民に耕地を分割する法。中国、唐の均田法にならい、大化の改新の後に採用されたもので、6年ごとに班田を実施し、6歳以上の良民の男子に2段、良民の女子と官戸・公奴婢(くぬひ)にはその3分の2、家人・私奴婢には良民男女のそれぞれ3分の1の口分田(くぶんでん)を与えた。終身の使用を許し、死亡の際に国家に収めた。平安初期以後は実行が困難になった。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)みゃうぶ【命婦】名詞:宮中や後宮(こうきゆう)の女官の一つ。五位以上の女官(内(ない)命婦)と、五位以上の役人の妻(外(げ)命婦)がある。平安時代以後は、中級の女官をいう。(学研)

 

 万葉集では、「せり」を詠った歌はこの葛城王と薩妙観命婦の贈答歌二首のみである。

 話は脱線するが、「せり」を調べていると、いろいろ面白い記述にめぐりあった。

 廣野卓著「食の万葉集」(中公新書)には、「セリの風味が好まれていたことは明らかである。史料には茎芹と葉芹が登場するので、茎と葉で別な調理法があったようだ。」と書かれている。また、「室町時代には、根芹には強い強精作用があると信じられていたので・・・」元禄時代の「堀河之水」には、次のような句が詠まれていた、とも書かれている。

 「根芹見てつむ手を恥づる女かな」「物洗う女の恥づる根芹かな」

 

根芹について、AGRI PICK HPの「せりは根っこまでおいしい!黒い部分も食べる?洗い方やせり鍋など簡単おいしい養生ごはん」に「せりの根っこを食べる料理といえば、宮城県・仙台の郷土料理『せり鍋』がよく知られています。宮城県はせりの生産量が全国トップであり、『仙台せり』というブランドもあります。せり鍋の大きな特徴は、『せりの根っこも一緒に使う』ということ。せりの根っこからよいだしが出るため、独特の香りが楽しめるさっぱりとした味わいの鍋に仕上がります。せり鍋は東日本大震災の地域復興のなかで全国に広まり、『一度食べたらやみつきになった』という人も少なくありません。」と書かれていた。

根っこ付の芹が売られているのは、あまり見たことがない。そんなに美味いというのであれば気を付けて探してみたいものである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「食の万葉集」 廣野 卓 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「AGRI PICK HP」