万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1416)―和歌山県橋本市脇 橋本中央中学校―万葉集 巻九 一六七七

●歌は、「大和には聞こえも行く大我野の竹葉刈り敷き廬りせりとは」である。

和歌山県橋本市脇 橋本中央中学校万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、和歌山県橋本市脇 橋本中央中学校にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆山跡庭 聞徃歟 大我野之 竹葉苅敷 廬為有跡者

       (作者未詳 巻九 一六七七)

 

≪書き下し≫大和(やまと)には聞こえも行くか大我野(おほがの)の竹葉(たかは)刈(か)り敷き廬(いほ)りせりとは

 

(訳)いとしい人の待つ大和には聞こえていったかな。ここ大我野の竹の葉を刈り敷いて、私が廬に籠っているということは。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)大我野:和歌山県橋本市西部の地という。

 

一六六七から一六七九歌の歌群の題詞は、「大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊國時歌十三首」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首>である。

(注)ここでは太上天皇持統天皇大行天皇文武天皇をさす。

(注の注)だいじょうてんわう【▽太上天皇】:天皇の譲位後の尊称。太上皇上皇。たいじょうてんのう。だじょうてんのう。(コトバンク デジタル大辞泉

(注の注)たいこうてんわう【大行天皇】:天皇の死後、まだ諡号しごうを贈られていない間の尊称。先帝の意味にも用いる。(コトバンク デジタル大辞泉

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その742)」で紹介している。

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 行幸に帯同する一行は、「廬す」というが、歌にもあるように「竹葉(たかは)刈(か)り敷き」野宿するのであろう。天候等を考えると大変な苦労である。

 天皇など身分の高い人の場合は、雨露をしのげる程度の仮廬を建ててそこで宿泊したものと考えられる。

 次の歌をみてみよう。

 

◆金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念

      (額田王 巻一 七)

 

≪書き下し≫秋の野のみ草(くさ)刈り葺(ふ)き宿れりし宇治(うぢ)の宮処(みやこ)の仮廬(かりいほ)し思(おも)ほゆ

 

(訳)秋の野のみ草を刈り取って屋根を葺き、旅宿りをした宇治の宮、あの宮どころの、仮の廬(いおり)が思われる。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その227改)」で紹介している。

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 この歌からは、「み草(くさ)刈り葺(ふ)き宿れりし」であるから、「み草を刈って」屋根を「葺(ふ)いて」「宿れり」と、雨露をしのげる程度の仮の廬を建てたのであろうと想像される。

 

 さらに家持が内舎人(うどねり)として聖武天皇が伊勢の国に行幸したおり河口の行宮(かりみや)での勤務の折に詠んだ歌をみてみよう。

 

◆河口之 野邊尓廬而 夜乃歴者 妹之手本師 所念鴨

     (大伴家持 巻六 一〇二九)

 

≪書き下し≫河口(かはぐち)の野辺(のへ)に廬(いほ)りて夜(よ)の経(ふ)れば妹(いも)が手本(たもと)し思ほゆるかも

 

(訳)河口の野辺で仮寝をしてもう幾晩も経(た)つので、あの子の手枕、そいつがやたら思われてならない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

 「河口の野辺」に「廬りて」であり、おそらく屋根らしきものが葺かれた仮廬でなく、野宿状態であったと想像される。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その399)」で紹介している。

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 田畑の番小屋の方が、まだましであったのかもしれない。次の歌をみてみよう。

 

◆然不有 五百代小田乎 苅乱 田盧尓居者 京師所念

      (大伴坂上郎女 巻八 一五九二)

 

≪書き下し≫しかとあらぬ五百代(いほしろ)小田(をだ)を刈り乱り田盧(たぶせ)に居(を)れば都し思ほゆ

 

(訳)それほど広いとも思われぬ五百代(いおしろ)の田んぼなのに、刈り乱したままで、いつまでも田中の仮小屋暮らしをしているものだから、都が偲ばれてならない。(同上)

(注)代(しろ):頃とも書く。おもに大化前代に用いられた田地をはかる単位。1代とは稲1束 (当時の5升,現在の2升にあたる) を収穫しうる面積であり、高麗尺 (こまじゃく) で 30尺 (10.68m) ×6尺 (2.13m) の長方形の田地の面積をいう。これは大化改新の制の5歩にあたる。大化改新以後,町,段,歩に改められた。(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

(注)たぶせ【田伏せ】:耕作用に田畑に作る仮小屋。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その81改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦ください。)

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 「廬」の言葉一つとっても、万葉びとの肉体的、精神的タフさが伝わって来る。

 

 

橋本駅➡橋本中央中学校

 

 先達のブログなどでは「橋本中学校」となっているので、ナビにインプットすると「初芝橋本中学校」と出てくる。ナビに従って目的地に着いたが、橋本駅から随分離れており、どこか雰囲気が違う。携帯などでもう一度検索すると、初芝橋本中学校は私立であり、橋本市立の方は橋本中央中学校でなる。橋本中央中学校で再度登録し直す。

 結局橋本駅近くまで戻って来た。ロスタイム発生。調査不足であった。

 通用口のインターフォンで、歌碑の見学をお願いする。快く承けていただき構内に。正門のすぐ後ろといっていい所に歌碑が建てられていた。

 

橋本中央中学校正門と歌碑


あとで知ったのであるが、生徒数の減少などから「学文路(かむろ)、西部、橋本の3校」が統合され、2016年4月から橋本中学校が橋本中央中学校として生まれ変わったのである。

歌碑と歌の解説案内板



 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」

★「コトバンク デジタル大辞泉