万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その81改)―奈良県桜井市長谷寺本堂近くの鐘楼横―万葉集 巻八 一五九三

●歌は、「こもりくの泊瀬の山は色づきぬしぐれの雨は降りにけらしも」である。

 

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長谷寺鐘楼横万葉歌碑(大伴坂上郎女

 

●歌碑は、奈良県桜井市長谷寺本堂近くの鐘楼横にある。

 

●歌をみていこう。

◆隠口乃 始瀬山者 色附奴 鍾礼乃雨者 零尓家良思母

                (大伴坂上郎女 巻八 一五九三)

 

≪書き下し≫こもりくの泊瀬(はつせ)の山は色づきぬしぐれの雨はふりにけらしも

 

(訳)隠り処(こもりく)の泊瀬の山は見事に色づいてきた。時雨の雨は、早くもあの山々に降ったのであるらしい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「大伴坂上郎女竹田庄作歌二首」<大伴坂上郎女竹田庄(たけたのたどころ)にして作る歌二首>である。

 

 歌碑を見て、大伴坂上郎女長谷寺にお参りした時にでも作ったのだろうと思ったが、題詞にあるように竹田庄で作った歌だという。

 竹田庄は、今の、橿原市東竹田町であるという。耳成山の東側にあり、桜井市にも隣接している。

 堀内民一氏の著書「大和万葉―その歌の風土」によると、大伴氏の荘園が竹田庄にあったので、大伴坂上郎女がそこに住んでいたそうである。同著の中で、「真東に三輪山が見えて、その右奥の手の泊瀬渓の山々や椋橋山が特に高く見わたされる。泊瀬の山は黄葉した。あの山の辺ではしぐれが降ったにちがいない、とうたった。目に見えわたる山々の中で、特に奥まった峡谷の泊瀬の山に心がうごいている。」と書いておられる

 

もう一首の歌もみていこう。

◆然不有 五百代小田乎 苅乱 田盧尓居者 京師所念

                  (大伴坂上郎女 巻八 一五九二)

 

≪書き下し≫しかとあらぬ五百代(いほしろ)小田(をだ)を刈り乱り田盧(たぶせ)に居(を)れば都し思ほゆ

 

(訳)それほど広いとも思われぬ五百代(いおしろ)の田んぼなのに、刈り乱したままで、いつまでも田中の仮小屋暮らしをしているものだから、都が偲ばれてならない。(同上)

(注)代(しろ):頃とも書く。おもに大化前代に用いられた田地をはかる単位。1代とは稲1束 (当時の5升,現在の2升にあたる) を収穫しうる面積であり、高麗尺 (こまじゃく) で 30尺 (10.68m) ×6尺 (2.13m) の長方形の田地の面積をいう。これは大化改新の制の5歩にあたる。大化改新以後,町,段,歩に改められた。(コトバンク>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

(注)たぶせ【田伏せ】:耕作用に田畑に作る仮小屋。

 

 

 仁王門から登廊の左右のぼたんを見ながら一段一段登っていく。ぼたんは咲き始めであるがあちこちで大輪の花をつけている。

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長谷寺登廊長谷寺と左右のぼたん

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登廊と遠望

 登り切った右手に納経・朱印所御守授与所があり、ベンチに座っている人がいる。階段上りの疲れを癒しているのだろう。その前の見晴らしの良い広場に、松尾芭蕉の句碑と並んでいる。

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長谷寺本堂(愛染堂から撮影)

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鐘楼(写真左下に歌碑が見える)

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

★「コトバンク>ブリタニカ国際大百科事典 小項目」

★「weblio古語辞書」

 

※20210428朝食関連記事削除、一部改訂