―その734―
●歌は、「沖つ島荒礒の玉藻潮干満ちい隠りゆかば思ほえむかも 」と
「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る」である。
●歌をみていこう。
◆奥嶋 荒礒之玉藻 潮干滿 伊隠去者 所念武香聞
(山部赤人 巻六 九一八)
≪書き下し≫沖つ島荒礒(ありそ)の玉藻(たまも)潮干(しほひ)満ちい隠(かく)りゆかば思ほえむかも
(訳)沖の島の荒磯(あらいそ)に生えている玉藻、この美しい藻は、潮が満ちて来て隠れていったら、どうなったかと思いやられるだろう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)い 接頭語:動詞に付いて、意味を強める。「い隠る」「い通ふ」「い行く」。 ※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
◆若浦尓 塩滿来者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡
(山部赤人 巻六 九一九)
≪書き下し≫若(わか)の浦(うら)に潮満ち来(く)れば潟(かた)を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る
(訳)若の浦に潮が満ちて来ると、干潟(ひがた)がなくなるので、葦の生えている岸辺をさして、鶴がしきりに鳴き渡って行く。(同上)
長歌の「風吹けば白波騒ぎ 潮干れば玉藻刈りつつ」を承け、九一八歌ならびに九一九歌で満潮時の思いと情景を述べている。
左注は、「右年月不記 但偁従駕玉津嶋也 因今檢注行幸年月以載之焉」<右は、年月を記(しる)さず。ただし、「玉津島に従駕(おほみとも)す」といふ。よりて今、行幸(いでまし)の年月を検(ただ)して載すである>。
玉津島神社・鹽竃神社HPによると、「玉津島神社は、住吉大社、柿本神社と並ぶ『和歌三神(わかさんじん)』の社として、古来より天皇や上皇、公家、歌人、藩主など、和歌の上達を願う人々の崇敬を集めてきました。和歌三神とは和歌の守護神で、玉津島明神と住吉明神、柿本人麻呂の三柱の神をさします。この玉津島明神が、玉津島神社祭神の一柱『衣通姫尊(そとおりひめのみこと)』です。衣通姫は第19代允恭(いんぎょう)天皇の后で和歌の名手。さらに絶世の美女でした。その麗しさは、その名のとおり『衣を通して光り輝いた』といわれます。(後略)」とある。
衣通姫の名前は、万葉集の九十歌の題詞に衣通王(そとほりのおほきみ)として出て来るが、允恭天皇の娘とある。
九十歌の題詞ならびに左注については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(番外200513)」で紹介している。 ➡ こちら 番外200513-1
「コトバンク 精選版 日本国語大辞典」によると、「(古く『そとおりびめ』とも) 『記紀』の伝説上の女性。容姿が美しく、艷色が衣を通して光り輝いたという。『日本書紀』では允恭(いんぎょう)天皇の妃、皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の弟姫(おとひめ)、『古事記』では允恭天皇の皇女軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とされる。衣通王(そとおりのみこ)とも。後世、和歌三神の一として和歌山市の玉津島神社にまつられる。」とある。
さらに同神社HPには、「『小野小町(おののこまち)は、いにしへの衣通姫(そとおりひめ)の流(りゅう)なり』と、美女として名高い歌人・小野小町を、紀貫之(きのつらゆき)は『古今集仮名序(こきんしゅうかなじょ)』でこのように評しました。」とある。境内には「小野小町の袖掛けの塀」なるものもある。世界三大美女「クレオパトラ・楊貴妃・小野小町」の名が登場するものまた楽しからずやである。
和歌守護神なる和歌三神なる言葉はもちろん玉津島神社の祭神が衣通姫であることも今回の万葉歌碑めぐりで初めて知ったところである。
歌碑を巡り、歌碑にロマンに誘われる。
これからも、できるだけ数多くの歌碑を訪れ、歌を自分なりに勉強していくつもりである。
―その735―
●歌は、「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る」である。
●歌は、前項の反歌九一九歌と同じである。
玉津島神社から塩竈神社鳥居のところまでは、海岸線にそって歩いていった。鏡山を回り込む形である。同神社鳥居横の少し切り立ったところに歌碑が建てられている。風光明媚な所である。
玉島神社駐車場に戻り、次の目的地、片男波公園をめざす。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「玉津島神社・鹽竃神社HP」