万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1961)―米子市彦名町 粟嶋神社―万葉集 巻一 三五五

●歌は、「大汝少彦名のいましけむ志都の石室は幾代経ぬらむ」である。

米子市彦名町 粟嶋神社万葉歌碑(生石村主真人)

●歌碑は、米子市彦名町 粟嶋神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆大汝 小彦名乃 将座 志都乃石室者 幾代将經

      (生石村主真人 巻三 三五五)

 

≪書き下し≫大汝(おおなむち)少彦名(すくなびこな)のいましけむ志都(しつ)の石室(いはや)は幾代(いくよ)経(へ)ぬらむ

 

(訳)大国主命(おおくにぬしのみこと)や少彦名命が住んでおいでになったという志都の岩屋は、いったいどのくらいの年代を経ているのであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)おおあなむちのみこと【大己貴命】:「日本書紀」が設定した国の神の首魁(しゅかい)。「古事記」では大国主神(おおくにぬしのかみ)の一名とされる。「出雲風土記」には国土創造神として見え、また「播磨風土記」、伊予・尾張・伊豆・土佐各国風土記逸文、また「万葉集」などに散見する。後世、「大国」が「大黒」に通じるところから、俗に、大黒天(だいこくてん)の異称ともされた。大穴牟遅神(おおあなむぢのかみ)。大汝神(おほなむぢのかみ)。大穴持命(おほあなもちのみこと)。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)少彦名命 すくなひこなのみこと:記・紀にみえる神。「日本書紀」では高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子、「古事記」では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子。常世(とこよ)の国からおとずれるちいさな神。大国主神(おおくにぬしのかみ)と協力して国作りをしたという。「風土記」や「万葉集」にもみえる。穀霊,酒造りの神,医薬の神,温泉の神として信仰された。「古事記」では少名毘古那神(すくなびこなのかみ)。(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注)志都の石室:島根県大田市静間町の海岸の岩窟かという。(伊藤脚注)

(注の注)静之窟(しずのいわや):「静間川河口の西、静間町魚津海岸にある洞窟です。波浪の浸食作用によってできた大きな海食洞で、奥行45m、高さ13m、海岸に面した二つの入口をもっています。『万葉集』の巻三に『大なむち、少彦名のいましけむ、志都(しず)の岩室(いわや)は幾代経ぬらむ』(生石村主真人:おおしのすぐりまひと)と歌われ、大巳貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)2神が、国土経営の際に仮宮とされた志都の石室はこの洞窟といわれています。洞窟の奥には、大正4年(1915)に建てられた万葉歌碑があります。現在崩落により、立入禁止となっています。」(しまね観光ナビHP)

(注)けむ 助動詞《接続》活用語の連用形に付く。:①〔過去の推量〕…ただろう。…だっただろう。②〔過去の原因の推量〕…たというわけなのだろう。(…というので)…たのだろう。▽上に疑問を表す語を伴う。③〔過去の伝聞〕…たとかいう。…たそうだ。 ⇒語法:(1)名詞の上は過去の伝聞③の過去の伝聞の用法は、名詞の上にあることが多い。例「『関吹き越ゆる』と言ひけむ浦波」(『源氏物語』)〈「関吹き越ゆる」と歌に詠んだとかいう浦波が。〉(2)未然形の「けま」(上代の用法) ⇒参考:中世以降の散文では「けん」と表記する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは③の意

 この歌については、前稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1960)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

米子市彦名町 米子水鳥公園駐車場→同町 粟嶋神社■

 米子水鳥公園駐車場から見た小高い山の頂上にある粟嶋神社の前の駐車場に車を停める。参道を進むと187段の参道石段が見えて来る。

鳥居と参道

187段の参道石段

 同神社の万葉歌碑を検索したが、歌碑そのものの写真は見つかるが、場所までは特定できていない。歌や「静の岩屋」からして、小高い山の神社の背後にある岩屋近くの厳しい所に歌碑があると想像してしまう。

社務所には誰もおられないので、貼り紙に従って神主さんのご自宅へ厚かましくも万葉歌碑の場所を教えてもらいに行く。

呼び鈴を押すと、品の良い、凛としたなかにやさしさを漂わせるご老婦人が出てこられた。

京都から万葉歌碑を目的に来た旨を話し、石段を上って社のどのあたりに行けば良いのかをお尋ねした。そこまでは行く必要はないですよと、にこやかに案内してくださる。何と、歌碑は、参道石段に向かって右手奥に立てられていたのである。

お礼を申し上げ、歌碑を撮影する。

 折角なので、足腰の悪い家内を下で待たせ、一人で石段を上る。きつい!きつい!歌碑巡りには石段上りがついてまわる。

 何とか上りきり息を切らせながら社殿に参拝する。

境内

参道脇に置かれている旧い狛犬


 下りようとすると独りで上って来られた地元の人らしい老婦人が「下に京都ナンバーの車がありましたが、京都からですか。」と聞かれる。

「そうです、よくここにはこられるのでか。」と尋ねる。

ここまで上って来られたのは、4回目で、足腰を鍛えたいので近所の人に相談したところ、ここの石段を教えてもらったそうである。雨の日には石段は滑りやすいから気を付けてと言われましたとも。最初は途中で引き返すことが多かったが、最近はなんとか上れるようになった、と、息を切らせながらお話になる。しばらく健康に関する石段談義におつきあいする。

 確かに石段は、摩耗して丸みを帯びている。注意をしながらゆっくり下りて行く。

 

 この粟嶋神社については、米子市観光協会HP 米子観光ナビに「標高38mの小高い丘・粟島は、米子水鳥公園からもほど近く。187段という長い石段を登りつめると、手に乗るほど小さい姿をした神様『少彦名命(すくなひこなのみこと)』を祀る『粟嶋神社』があります。

粟島は、今では米子市内と陸続きですが、江戸時代までは中海に浮かぶ小さな島でした。

いにしえより“神の宿る山"として信仰され、『伯耆風土記』によると、『少彦名命』が粟の穂に弾かれ、常世の国へ渡られたため、この地は粟島と名付けられたといいます。・・・粟島の洞穴は『静の岩屋(しずのいわや)』と呼ばれています。その昔、このあたりの漁師の集まりで、珍しい料理が出されましたが誰も気味悪がって食べず、ひとりの漁師が家に持ち帰りました。それを、何も知らない娘が食べてしまいました。その肉は、いつまで経っても寿命が来ないと言われている人魚の肉。人魚の肉を食べてしまった娘はいつまで経っても18歳のまま、寿命が来ません。やがて世をはかなみ、尼さんになって粟島の洞窟に入り、物を食べずに寿命が尽きるのを待ちました。とうとう寿命が尽きたときの年齢は八百歳。その後『八百比丘(はっぴゃくびく)』と呼ばれ、延命長寿の守り神として祀られるようになりました。」と書かれている。

参道脇の「粟嶋神社の自然と伝説」


 また、参道の脇にある「粟嶋神社の自然と伝説」には、上記の「八百比丘尼(やおびくに)の伝説」とともに「『米子』の地名発祥伝承の地」として粟嶋村に住む長者が88歳になって子供が授かり、その子孫が大いに繁栄したことから、縁起のいい「八十八の子」に因んで「米子」の地名となったという言い伝えがあることが記されいる。

 18、800、88と「八」絡みの言い伝えである。

「粟嶋神社」の謂れ



 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「米子観光ナビ」 (米子市観光協会HP)

★「しまね観光ナビHP」

★「粟嶋神社の自然と伝説」 (参道の脇解説案内板)