万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2100)―山口県周防大島町 大多麻根神社―万葉集 巻十五 三六三八

●歌は、「これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海人娘子ども」である。

山口県周防大島町 大多麻根神社万葉歌碑(田辺秋庭)

●歌碑は、山口県周防大島町 大多麻根神社にある。

 

●歌を見ていこう。

 

 題詞は、「過大嶋鳴門而經再宿之後追作歌二首」<大島(おほしま)の鳴門(なると)を過ぎて再宿(さいしゆく)を経ぬる後(のち)に、追ひて作る歌二首>

(注)大島の鳴門:山口県屋代島と本州との間の大畠の瀬戸。(伊藤脚注)

(注)さいしゅく【再宿】〘名〙:二夜続けて宿泊すること。二晩どまり。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)追ひて作る歌:後になって回想して作る歌。(伊藤脚注)

 

◆巨礼也己能 名尓於布奈流門能 宇頭之保尓 多麻毛可流登布 安麻乎等女杼毛

       (田辺秋庭<遣新羅使人等> 巻十五 三六三八)

 

≪書き下し≫これやこの名に負(お)ふ鳴門の渦潮(うづしほ)に玉藻刈(たまもか)るとふ海人娘子(あまをとめ)ども

 

(訳)これがまあ、名にし負う鳴門の渦潮、その渦潮に棹(さお)さして玉藻を刈るという、海人娘子たちなのか。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)これやこの 【此や此の・是や此の】分類連語:これこそあの例の。これがあの。 ※「や」は係助詞。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は、「右一首田邊秋庭」<右の一首は田辺秋庭(たなべのあきにわ)>である。

(注)田辺秋庭:伝未詳

 

 

 もう一首もみてみよう。

 

◆奈美能宇倍尓 宇伎祢世之欲比 安杼毛倍香 許己呂我奈之久 伊米尓美要都流

       (遣新羅使人等 巻十五 三六三八)

 

≪書き下し≫波の上(うへ)に浮寝(うきね)せし宵(よひ)あど思(も)へか心悲(こころがな)しく夢(いめ)に見えつる

 

(訳)波の上で浮寝をした夜、そんな夜なのに、どう思って、我が妻がせつなくも夢の中なんぞに見えたりしたのであろうか。(同上)

(注)うきね【浮き寝】名詞:①水鳥が水上に浮いたまま寝ること。②(水上にとめた)船で寝ること。③流す涙に浮くほどの悲しみをいだいて寝ること。また、落ち着かず不安な思いで寝ること。④(夫婦でない男女の)一時的な共寝。転じて、仮の男女関係。(学研)ここでは②の意

(注)あど 副詞:どのように。どうして。 ※「など」の上代の東国方言か。(学研)

(注)あど思へか心悲しく夢に見えつる:どう思って妻が夢に見えたりしたのか。詰問の形で夢見を喜ぶ。前歌に対し望郷歌。(伊藤脚注)

大多麻根神社鳥居と参道石段

社殿




 

■■大島郡周防大島町 塩竈神社→同 大多麻根神社■■

大島郡周防大島町とあるので、この島は周防大島と思っていた。題詞の「大島の鳴門」に関する脚注に「山口県屋代島と本州との間の大畠の瀬戸(伊藤脚注)」とあるので調べてみた。

「フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」には、「屋代島」について、「屋代島(やしろじま)は、山口県の島。周辺の島々を合わせ周防大島諸島を構成する。国土地理院が定める現在の正式名ではこの「屋代島」とする。ただし歴史的には周防国の大島であったことから周防大島(すおうおおしま)または単に大島と呼ぶことが多く、現在でも、屋代島と呼ぶことは少ない。・・・古くから瀬戸内海海上交通の要衝とされ、『万葉集』にもこの島を詠んだ歌がある。『日本書紀』、『古事記』の国作り神話の中にも現れる。周辺の有人島と合わせて大島郡周防大島町を形成し、・・・島内の主要地区は、久賀、安下庄・橘、小松・屋代、平野などがある。・・・屋代島は、本州沖1〜2kmの瀬戸内海上にある。瀬戸内海では淡路島、小豆島に次ぎ3番目に大きい。」と書かれている。

防大



 山口県観光連盟HP「おいでませ山口へ」に「大畠瀬戸の渦潮」について次のように説明が書かれている。

「大畠瀬戸は、昔から海上交通の要衝として知られ、干潮の急流で発生する渦潮は、日本3大潮流にも数えられています。大島大橋がかかっており、橋の歩道からは、眼下に渦潮の激流を眺める事ができます。」

参道から見た鳥居と周防大



 大多麻根神社の万葉歌碑については、グーグルのストリートビューで確認が取れていたのでスムーズに見つけることができた。

 

 「これやこの」と歌いだすと「行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関(蝉丸)」と頭に浮かんでしまう。

 万葉集には、この歌いだしの歌がもう一首ある。

 歌をみてみよう。

 

題詞は、「越勢能山時阿閇皇女御作歌」<背の山を越ゆる時に、阿閇皇女(あへのひめみこ)の作らす歌>である。

(注)背の山:和歌山県伊都郡かつらぎ町の山。飛鳥から二泊目の地。(伊藤脚注)

(注)阿閇皇女:天智天皇の皇女。草壁皇子の妃。後の元明天皇。夫君没去後一年半目。子の軽皇子は時に八歳(伊藤脚注)

 

 

◆此也是能 倭尓四手者 我戀流 木路尓有云 名二負勢能山

       (阿閇皇女 巻一 三五)

 

≪書き下し≫これやこの大和(やまと)にしては我(あ)が恋ふる紀伊路(きぢ)にありといふ名に負ふ背の山

 

(訳)これがまあ、大和にあっては常々私が見たいと恋い焦がれていた、紀伊道(きじ)にあるという、その名にそむかぬ背(夫)の山なのか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)「背」に「夫」を意識している。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1412)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

■■■伏見稲荷大社境内社「伏見神宝神社」ならびに井手の玉川「歌碑の道」万葉歌碑巡り■■■

 3月13日インスタなどで掲載されていた伏見稲荷大社境内社「伏見神宝神社」の大伴家持の歌碑と井手の玉川「歌碑の道」の橘諸兄の歌碑を巡って来た。

 

■伏見神宝神社■

 伏見稲荷大社は、修学旅行生や外国人が結構多く、コロナ問題もようやく落ち着きを見せたことを裏付けるかのような賑わいであった。

伏見稲荷大社千本鳥居の賑わい

 「伏見神宝神社」は、伏見稲荷大社の千本鳥居のわき道から150mほどのところにある。これが結構きつい上り道である。

伏見神宝神社万葉歌碑と大伴家持

 たどり着いたところは、静かな異次元のような空間であった。

 歌については、後日紹介させていただきます。

伏見神宝神社境内

 

 

■井手の玉川 歌碑の道■

 井手町を流れる玉川沿いに「歌碑の道」が整備されており、山吹に因んだ歌碑が多く配されている。その中の一つに橘諸兄の歌碑がある。

「井手の玉川 歌碑の道」の碑

橘諸兄の歌碑



 京都府観光連盟HPに「井手町の観光ポイントのいくつかは、ハイキングを兼ねた散策コースとして整備されています。『山吹ハイキングコース』という名前の通り、春の玉川畔ではヤマブキの群生を見ることができます。」と紹介されている。

 

 

 

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感想(1件)

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」

★「おいでませ山口へ」 (山口県観光連盟HP)

★「京都府観光連盟HP」