万葉歌碑巡りのなかで、小生には幻となった(なっている)万葉歌碑を挙げてみよう。
2022年10月18日岐阜県の万葉歌碑巡りを行い、高山市丹生川町 丹生川文化ホール、同 丹生川町根方 穂枝橋の歌碑を訪れた。
当初の計画では、これより先に高山市史跡「名馬大黒の碑」の横にある「万葉歌碑」に行く予定であった。グーグルストリートビュー上でも現物確認ができていた。ただ行くまでの道の広さや先達のブログでの行程の様子などを読んで無理しないと決めたのである。
ストリートビューの車が行っているので慎重に運転すれば大丈夫だろうと思うが・・・。
(注)高山市HPの「史跡・名勝一覧」に下記のように記載されている。
歌碑は巻十六 三八四四歌である。
●歌をみていこう。
題詞は、「嗤咲黒色歌一首」<黒き色を嗤(わら)ふ歌一首>である。
◆烏玉之 斐太乃大黒 毎見 巨勢乃小黒之 所念可聞
(土師水通 巻十六 三八四四)
≪書き下し≫ぬばたまの斐太(ひだ)の大黒(おほぐろ)見るごとに巨勢(こせ)の小黒(をぐろ)し思ほゆるかも
(訳)ぬばたまの斐太の大黒を見ると、そのたんびに、巨勢の小黒までが、しきりに思われてくるんだな。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)斐太の大黒見るごとに:大男巨勢斐太朝臣の色の黒さを見るたびに。「斐太の大黒」には飛騨産の大黒馬の意をこめるか。(伊藤脚注)
(注)巨勢の小黒:小男巨勢朝臣豊人の色の黒さ。巨勢産の小黒馬の意をこめるか。(伊藤脚注)
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高山市丹生川町 丹生川文化ホールの歌碑の裏面に「丹生川村は 明治八年三月小八賀郷二十七箇村と荒城郷五箇村が一つになって誕生しました。丹生川という名は万葉集巻第七 一一七三の歌 斐太人之 真木流云 尓布乃河 事者雖通 船會不通 から名づけられたといわれています。 開村百二十周年を迎えこの碑を建立しました・・・」と書かれている。
万葉集の歌から村の名前をつけるなんてなんと素敵な発想でではないか。都から離れた飛騨の山奥の村と都の結びつきには驚かされる。
巻十六 三八四四歌では飛騨産の大黒馬が詠われているように、都の人にとって身近な存在であったようである。
一一七三歌ならびに三八四四歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1929)」で紹介している。
➡ こちら1929
■山口県防府市東佐波令 畑人丸神社ならびに同市上右田 熊野神社裏山の人丸神社■
次の幻の歌碑は、防府市の畑人丸神社と熊野神社裏山の人丸神社の歌碑である。
旅行日までに事前に検索してもヒットしない。確実に押さえるべく防府の観光協会に確認を入れておいた。
畑人丸神社については、「265段ある石段を上りきると境内で、拝殿左手のやまももの木の下に歌碑がある」、また熊野神社裏山の人丸神社については、「道が狭く普通車では通行しにくい。また、歌碑への道は藪になっており今は行く人もいない」そしてとの返事を頂いた。
畑人丸神社には確実に歌碑はある、しかし、米子粟嶋神社の187段の石段が相当きつかったことが頭をよぎる。さらに裏山の人丸神社は、「藪になっており今は行く人もいない」という不確実性下では、無駄足となる確率が高い。
結局、年齢や前後の予定を考えあわせると見送らざるを得ないとの結論に達したのである。
畑人丸神社の歌は、巻二 二一一ならびに二一二歌である。歌だけみてみよう。
◆去年見而之 秋乃月夜者 雖照 相見之妹者 弥年放
(柿本人麻呂 巻二 二一一)
≪書き下し≫去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせども相見(あひみ)し妹はいや年(とし)離(さか)る
(訳)去年見た秋の月は今も変わらず照らしているけれども、この月を一緒に見たあの子は、年月とともにいよいよ遠ざかってゆく。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)さかる【離る】自動詞:遠ざかる。隔たる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)いや年離る:この無聊の時間が行く末かけていよいよ重なることへの嘆き。(伊藤脚注)
(注の注)ぶりょう【無聊】:[名・形動]退屈なこと。心が楽しまないこと。気が晴れないこと。また、そのさま。むりょう。(学研)
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この歌については、「泣血哀慟歌」の二首目(長歌:二一〇歌)とともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1278)」で紹介している。
➡ こちら1278
◆衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑往者 生跡毛無
(柿本人麻呂 巻二 二一二)
≪書き下し≫衾道(ふすまぢ)を引手(ひきで)の山に妹を置きて山道(やまぢ)行けば生けりともなし
(訳)衾道よ、その引手の山にあの子を置き去りにして、山道をたどると、生きているとも思えない。
(注)ふすまぢを【衾道を】[枕]:地名「引手の山」にかかる。かかり方未詳。「衾道」を地名と見なし、これを枕詞とはしない説もある。(コトバンク デジタル大辞泉)
(注)衾道:天理市南の衾田といわれた一帯か。(伊藤脚注)
(注)引手の山:長歌の「羽がひの山」に当たる。「衾」「引手」は「妹」の縁語。(伊藤脚注)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1279)」で紹介している。
➡こちら1279
2022年11月18~19日岐阜県の万葉歌碑巡りを行った。
養老公園で力尽き、養老の滝まで行かなかったことで帰途少し時間的に余裕ができた。そこで名神経由で帰ることにした。
折角なので、これまで二度挑戦し、見つけることが出来なかった近江八幡市の「水茎の岡の万葉歌碑」に三度目の挑戦をしたのである。
二度目の挑戦の時に、近江八幡市の総合政策部観光政策課の方にお送りいただいた資料をもとに、ひょっとして歌碑に出会えるのではと密かに期待して行ったのである。
二度目の挑戦で見つからず、同課に問い合わせたのである。
なんとその日に現地に行って、見つからなかったが、調べの内容をお送りいただいたのである。クイックレスポンスに驚き、三度目の挑戦を考えていたのである。
現場は、笹が身の丈ほどに伸びており、ここではと見当をつけ少し笹をかき分け、足で踏みつけ道を作りつつ進むが、笹、笹、笹。藪の中で悪戦苦闘。
今回も徒労に終わったのである。
先達のブログ等の歌碑の写真では美しい姿で写っているのに・・・。小生にとってはなぜか幻の歌碑である。
また、機会をみて来よう。いつか出逢える日を夢見て。
●歌をみてみよう。
◆鴈鳴之 寒鳴従 水茎之 岡乃葛葉者 色付尓来
(作者未詳 巻十 二二〇八)
≪書き下し≫雁(かり)がねの寒く鳴きしゆ水茎(みずくき)の岡の葛葉(くずは)は色づきにけり
(訳)雁が寒々と鳴いてからというもの、岡に茂る葛の葉はすっかり色づいてきた。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)ゆ:①〔起点〕…から。…以来。②〔経由点〕…を通って。…を。③〔動作の手段〕…で。…によって。④〔比較の基準〕…より。 ⇒参考 上代の歌語。類義語に「ゆり」「よ」「より」があったが、中古に入ると「より」に統一された。(学研)
(注)みづくきの【水茎の】分類枕詞:①同音の繰り返しから「水城(みづき)」にかかる。②「岡(をか)」にかかる。かかる理由は未詳。 ⇒参考 中古以後、「みづくき」を筆の意にとり、「水茎の跡」で筆跡の意としたところから、「跡」「流れ」「行方も知らず」などにかかる枕詞(まくらことば)のようにも用いられた。(学研)
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この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1153)」で紹介している。
➡ こちら1153
福岡県遠賀郡芦屋町の岡湊神社の説明に「『岡湊』は『おかのみなと』」と読むとあり「水茎の岡の港」と詠まれた歌がある。歌をみてみよう。
◆天霧相 日方吹羅之 水巠之 岡水門尓 波立渡
(作者未詳 巻七 一二三一)
≪書き下し≫天霧(あまぎ)らひひかた吹くらし水茎(みずくき)の岡(おか)の港に波立ちわたる
(訳)今にも空がかき曇って日方風(ひかたかぜ)が吹いてくるらしい。岡の港に波が一面立っている。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)あまぎらふ【天霧らふ】分類連語:空が一面に曇っている。 ⇒なりたち 動詞「あまぎる」の未然形+反復継続の助動詞「ふ」(学研)
(注)ひかた【日方】名詞:東南の風。西南の風。 ※日のある方角から吹く風の意。(学研)
(注)みづくきの【水茎の】分類枕詞:①同音の繰り返しから「水城(みづき)」にかかる。
②「岡(をか)」にかかる。かかる理由は未詳。 参考 中古以後、「みづくき」を筆の意にとり、「水茎の跡」で筆跡の意としたところから、「跡」「流れ」「行方も知らず」などにかかる枕詞(まくらことば)のようにも用いられた。(学研)
(注)岡の港:「芦屋町観光協会HP(福岡県遠賀郡芦屋町)」の岡湊神社の説明に「『岡湊』は『おかのみなと』と読み、『日本書紀』には『崗之水門』として登場する芦屋の大変古い呼称です。実に1800年の歴史を誇り、『古事記』にもその記載があります。」とある。
この歌については、岡田宮の歌碑は、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その888-3)」で、魚見公園の歌碑は「同(その889)」で紹介している。
➡ こちら888-3、889
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」