万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2470)―

●歌は、「草枕 旅の憂へを 慰もる こともありやと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長き日に 思ひ積み来し 憂へ」と「筑波嶺の裾みの田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな」である。

茨城県つくば市筑波 筑波山神社万葉歌碑(高橋虫麻呂) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県つくば市筑波 筑波山神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「登筑波山歌一首 幷短歌」<筑波山(つくはやま)に登る歌一首 幷せて短歌>である。

 

草枕 客之憂乎 名草漏 事毛有哉跡 筑波嶺尓 登而見者 尾花落 師付之田井尓 鴈泣毛 寒来喧奴 新治乃 鳥羽能淡海毛 秋風尓 白浪立奴 筑波嶺乃 吉久乎見者 長氣尓 念積来之 憂者息沼

      (高橋虫麻呂 巻九 一七五七)

 

≪書き下し≫草枕(くさまくら) 旅の憂(うれ)へを 慰(なぐさ)もる こともありやと 筑波嶺(つくはね)に 登りて見れば 尾花(をばな)散る 師付(しつく)の田居(たゐ)に 雁(かり)がねも 寒く来鳴(きな)きぬ 新治(にひばり)の 鳥羽(とば)の淡海(あふみ)も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長き日(け)に 思ひ積み来(こ)し 憂(うれ)へはやみぬ

 

(訳)草を枕の旅の憂い、この憂いを紛らわすよすがもあろうかと、筑波嶺に登って見はるかすと、尾花の散る師付の田んぼには、雁も飛来して寒々と鳴いている。新治の鳥羽の湖にも、秋風に白波が立っている。筑波嶺のこの光景を目にして、長い旅の日数に積りに積もっていた憂いは、跡形もなく鎮まった。(同上)

(注)旅の憂へ:漢語の「旅愁」にあたる。他には見えない表現。(伊藤脚注)

(注)師付の田居:万葉の歌人高橋虫麻呂が歌に詠んだ場所といわれており、現在の志筑地区の北側、恋瀬川下流一帯の水田をさしたものと推定されています。この地には、昭和48年以前は鹿島やわらと称し、湿原の中央に底知れずの深井戸があったとされていますが、耕地整理によって景観がかわり、もとの深井戸があった場所から水を引いています。

この井戸にまつわる話として、日本武尊が水飲みの器を落したという内容や、鹿島の神が陣を張って炊事用にしたという内容が伝えられています。(かすみがうら市歴史博物館HP)

(注)新治:筑波山東麓の地。国府のあった石岡市の西郊。(伊藤脚注)

(注)鳥羽の淡海:東に小貝川、西に鬼怒川が流れ、その間にある市街地は北から伸びる洪積台地の末端となっています。小貝川沿岸の低地は「万葉集」に詠まれた鳥羽の淡海跡で、水田地帯となっています。主な観光スポットは、茨城百景に選定されている「砂沼」や関東最古の八幡様の「大宝八幡宮」などがあります。(いばらき観光キャンペーン推進協議会HP)

 

 反歌もみてみよう。

 

◆筑波嶺乃 須蘇廻乃田井尓 秋田苅 妹許将遺 黄葉手折奈

       (高橋虫麻呂 巻九 一七五八)

 

≪書き下し≫筑波嶺の裾(すそ)みの田居(たゐ)に秋田(あきた)刈る妹(いも)がり遣(や)らむ黄葉(もみち)手折(たお)らな

 

(訳)筑波嶺の山裾の田んぼで秋田を刈っているかわいい子に遣(や)るためのもみじ、そのもみじを手折ろう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)すそみ【裾回・裾廻】名詞:山のふもとの周り。「すそわ」とも。 ※「み」は接尾語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)たゐ【田居】名詞:①田。たんぼ。②田のあるような田舎。(学研)

(注)いもがり【妹許】名詞:愛する妻や女性のいる所。 ※「がり」は居所および居る方向を表す接尾語。(学研)

(注)な 終助詞《接続》活用語の未然形に付く。:①〔自己の意志・願望〕…たい。…よう。②〔勧誘〕さあ…ようよ。③〔他に対する願望〕…てほしい。 ※上代語。 ⇒語法:主語の人称による判断(学研)ここでは①の意

 

 一七五七・一七五八歌については、直近では拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2452)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

筑波山神社万葉歌碑<書き下し>(高橋虫麻呂) 20230927撮影

 

 万葉仮名と書き下しの二つの歌碑は、随神門手前左手にある。

 「随神門」については、「ニッポン旅マガジンHP」に次のように書かれている。

「明治初年の神仏分離廃仏毀釈までは筑波山信仰の中心は神仏習合の中禅寺だったため(筑波山神社はその後継)、初代の随神門も、徳川家光の中禅寺大修築の際に造営されたもの。宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)に焼失し、文化8年(1811年)に現在の門が再建されています。

今では随神門ですが、往時は仁王門で、仁王像(金剛力士像)を安置していました。筑波山神社が神社なのに寺の雰囲気があるのはそのため(神仏習合時代の名残)。

廃仏毀釈の際、仁王像は、桜川から筏(いかだ)で流され、東福寺つくば市松塚)に遷されています。

明治維新後、中禅寺は廃絶、筑波山神社になり、倭健命(やまとたけるのみこと)、豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)の随神像を祀り、随神門と呼ばれるようになりました。」

また、「拝殿」については、筑波山神社HPに「明治6年10月4日(1873)県社に列し、同8年(1875)中禅寺本堂跡地に現拝殿を造営して現在の規模を整えたのである。」と書かれている。

 

 

 


「筑波嶺」を眺めドライブし、「筑波山神社」境内の万葉歌碑を見ている言葉に言い表せない感動、一七五七歌ではないが、「筑波嶺の よけくを見れば」、筑波山神社の万葉歌碑の「よけくを見れば」である。

 京都に戻らなければの現実的な思いに支配されつつ筑波山神社を後にして、次の目的地である、石岡市のライオンズ広場 万葉の森へと向かったのである。

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「かすみがうら市歴史博物館HP」

★「いばらき観光キャンペーン推進協議会HP」

★「ニッポン旅マガジンHP」