●歌は、「橘の寺の長屋に我が率寝し童女放髪は髪上げつらむか」である。
●歌をみていこう。
題詞は、「古歌曰」<古歌に曰(い)はく>である。
◆橘 寺之長屋尓 吾率宿之 童女波奈理波 髪上都良武可
(作者未詳 巻十六 三八二二)
≪書き下し≫橘(たちばな)の寺の長屋(ながや)に我(わ)が率寝(ゐね)し童女(うなゐ)放髪(はなり)は髪上げつらむか
(訳)橘の寺の長屋に私が引っ張り込んで寝た、童女髪(うなゐ)というか放髪(はなり)というかあのおぼこむすめは、もう一人前に髪を結い上げていることだろうかなあ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)橘の寺:明日香にあった橘寺。(伊藤脚注)
(注)ゐぬ【率寝】他動詞:連れていって一緒に寝る。共寝する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)うなゐはなり【髫髪放髪・童女放髪】〘名〙: (「うない」は髪を項(うなじ)のあたりに垂らしているのをいい、「はなり」は髪をあげないでおさげのままにしていることをいう) 童女が髪をまだ結い上げないで振分髪にしていること。また、その童女。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
(注)かみあぐ【髪上ぐ】分類連語:①成人の儀式の髪上げをする。②(ある仕事のために)髪を上げる。(学研)ここでは①の意
左注は、「右歌椎野連長年脉曰 夫寺家之屋者不有俗人寝處 亦稱若冠女曰放髪丱矣 然則腹句已云放髪丱者 尾句不可重云著冠之辞哉」<右の歌は、椎野連長年(しひののむらじながとし)、脈(とり)めて曰はく、「それ、寺家(じけ)の屋は、俗人(よのひと)の寝(ぬ)る処にあらず。また、若冠(じやくくわん)の女(をみな)を偁(い)ひて、放髪丱(はなり)といふ。しからばすなはち、腰句(えうく)、すでに放髪丱と云へれば、尾句(びく)、重ねて著冠(ちやくわん)の辞(こと)を云ふべからじか」といふ>である。
(注)椎野連長年:伝未詳。「椎」にシヒ(誣・強)の意をみているか。(伊藤脚注)
(注)みゃく【脈/脉】① 動物の体内で血液が流通する管。血管。②脈拍。「—が乱れる」③《医師が患者の脈拍をみて病状を診断するところから》先の望み。見込み。➃ひとつづきになっているもの。筋道。「話の—をたどる」(weblo辞書 デジタル大辞泉)ここでは➃の意
(注)若冠の女:ここは成人の髪上げした女。(伊藤脚注)
(注)放髪丱:成人の髪型を曲解している。(伊藤脚注)
(注)腰句(ようく)〘名〙: 和歌や漢詩で、第三番目の句をいう。時には四句目をさすこともある。こしの句。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典 )
(注)びく【尾句】① 終わりの句。特に律詩の最後の2句。②短歌の第3句以下の句。特に第5句。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注)著冠:ここは女の成人式の髪上げ。(伊藤脚注)
(注)云ふべからじか:言うべきではあるまいよ、(伊藤脚注)
三八二三歌もみてみよう。
題は、「决曰」<決(さだ)めて日はく>である。
(注)正しいと定めてこ言った。(伊藤脚注)
◆橘之 光有長屋尓 吾率宿之 宇奈為放尓 髪擧都良武香
(作者未詳 巻十六 三八二三)
≪書き下し≫橘(たちばな)の照れる長屋に我(わ)が率(ゐ)寝(ね)し童女放髪(うなゐはなり)に髪上げつらむか
(訳)橘の照り映える長屋に、私が引っ張り込んで寝た、あの童女髪のおぼこは、もうお下げを人並みの髪に結い上げていることだろうかなあ。(同上)
(注)前歌の「橘」を植物に取りなして改めたもの。前歌の「俗人云々」に対応。(伊藤脚注)
(注)童女放髪:童女は放髪に。一語である前歌の「童女放髪」を二語と見て改めたもの。曲解に基づく改悪。以上はわざと「誣」を楽しんだ話か。(伊藤脚注)
三八二二の左注について、池田弥三郎氏は、その著「万葉びとの一生」(講談社現代新書)のなかで、「・・・原文の『童女波奈里』に対応して、左注の歌は『宇奈為放』と書き記しているので、・・・童女はうなゐ、放ははなりと訓むことが明らかだ・・・しかし、うなゐはなりという語はうなゐ・はなりと切れて、二語の接続している語なのか、うなゐの状態のはなりという言い方をしている語なのか、はっきりしない。本来は、うなゐという髪型の少女と、はなりという髪型の少女とは、年齢段階はそれぞれ異なるので、一人の女性を、うなゐはなりと、接続した形の一語で言い表していることについては、問題があるわけである。
これについては、『万葉集』では、左注として、椎野連長年のものものしい説を引用している。その指摘は二点についてだが、二番目の指摘がこの点に触れている。
- 寺の長屋は僧の住むところで、俗人の寝所ではない。だからおかしい。『照れる長屋』であろう。また、
- うなゐはなりとは元服の女のことで、それがさらに『髪をあげる』というのはおかしい。これは、『うなゐが、はなりに』髪をあげたとあるべきだろう。したがってこの歌は、
橘の 照れる長屋に わが率寝し うなゐ はなりに 髪あげつらむか
であろう、とした。この訂正の歌について、椎野連長年は、『決して日く』と記しているのだが、その言い方が自信たっぷりで、いかにもおかしい。
椎野連というのは、おそらく『志斐ノ連』であろう。そうだとすれば、その名自身、こじつけの本家みたいな名である。・・・『万葉集』の巻三に、持統天皇と志斐ノ嫗(しひのおうな)との歌のやりとり(二三六・二三七)があり、その中に『強語』という語がでてくる。しひがたりと訓む。すなわち『こじつけ物語』だ。そうでないことを、むりやりにこじつけて、そうだと証明してしまうのだ。ここにでてくる椎野連も、こういう風に名を記してはいるが、これも『しひ』(強ふ・誣ふ)を名告っている同じ仲間の者に違いない。」と書いておられる。
持統天皇と志斐ノ嫗(しひのおみな)との歌のやりとり(二三六・二三七)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その117改)」で紹介している。
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またまた広大な万葉集の海を見せつけられたように思うのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」