●歌は、「玉掃刈り来鎌麻呂むろの木と棗が本とかき掃かむため」である。
●歌をみていこう。
題詞は、「詠玉掃鎌天木香棗歌」<玉掃(たまばはき)、鎌(かま)、天木香(むろ)、棗(なつめ)を詠む歌>である。この互いに無関係の四つのものを、ある関連をつけて即座に歌うのが条件であった。
◆玉掃 苅来鎌麻呂 室乃樹 與棗本 可吉将掃為
(長忌寸意吉麻呂 巻一六 三八三〇)
≪書き下し≫玉掃(たまはばき) 刈(か)り来(こ)鎌麿(かままろ)むろの木と棗(なつめ)が本(もと)とかき掃(は)かむため
(訳)箒にする玉掃(たまばはき)を刈って来い、鎌麻呂よ。むろの木と棗の木の根本を掃除するために。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)玉掃:メドハギ、ホウキグサなどの説があるが、今日ではコウヤボウキ(高野箒)とするのが定説である。現在でも正倉院に「目利箒(めききのはふき)」として残されているが、これがコウヤボウキで作られていたことが分かった。しかしコウヤボウキの名は後世高野山で竹を植えられなかったことから、これで箒を作ったことに由来するといわれているから、あるいは別の名があったかもしれない。(「植物で見る万葉の世界」 國學院大學「万葉の花の会」発行)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2067)」で『玉箒』とともに紹介している。
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長忌寸意吉麻呂の歌全十四首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その987)」で紹介している。
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「忌寸」という姓について調べてみよう。
「コトバンク 株式会社平凡社 改訂新版 世界大百科事典」の「八色の姓 (やくさのかばね)」に次のように書かれている。
「684年(天武13)に制定された8種類の姓。・・・真人(まひと)、朝臣(あそん)/(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の8種類があげられている。第1の真人は、主として継体天皇以降の天皇の近親で、従来、公(君)(きみ)の姓を称していたものに授けられた。第2の朝臣は、物部連や中臣連は例外として、主として臣の姓を有していた景行天皇以前の天皇の後裔と伝える皇別氏族に与えられた。第3の宿禰は、伴造氏族であるもと連の姓を称していた天神、天孫の後裔という神別系の有力氏族に賜った。そして第4の忌寸は、主として従来、直(あたい)の姓を持っていた国造氏族や、渡来系の有力氏族に与えられた。第5の道師以下は、この新姓制定にともなう賜姓がなされておらず、道師、稲置は、ついに姓として姿を見せていない。ただし第6の臣、第7の連は、他の旧姓、たとえば造(みやつこ)、首(おびと)などとともに7~8世紀を通じて、諸氏族に賜っており、とくに八色の姓の制定以後の臣、連の両姓は、第6の臣,第7の連に相当するものとみなしてよいであろう。684年の段階で、八色の姓を制定したことは、姓の制度の面において、天皇の近親氏族を真人として、その第1位に置き、以下、朝臣、宿禰に有力氏族を配し、整然とした姓による政治的秩序づけを意図し、さらにその制度の上に天皇、王族が位するという律令国家体制確立のための一つの足がためをねらったものと考えられる。」
主な万葉歌人を上げてみると次のとおりである。
太原真人今城、柿本朝臣人麻呂、笠朝臣金村、大伴宿禰家持、山部宿禰赤人、長忌寸意吉麻呂、山上臣憶良、高市連黒人、高橋連虫麻呂
大伴坂上郎女については、唯一、巻八 一四五〇歌の題詞に「大伴宿禰坂上郎女」と書かれていた。この歌をみてみよう。
題詞は、「大伴宿祢坂上郎女歌一首」<大伴宿禰坂上郎女が歌一首>である。
(注)坂上郎女に姓(かばね)を加えた唯一の例。身分の高い女性には姓を用いることがある。(伊藤脚注)
◆情具伎 物尓曽有鶏類 春霞 多奈引時尓 戀乃繁者
(大伴坂上郎女 巻八 一四五〇)
≪書き下し≫心ぐきものにぞありける春霞(はるかすみ)たなびく時に恋の繁(しげ)きは
(訳)何とも息苦しい思いのするものです。春霞のたなびくこの時節に、恋心がちぢにいりみだれるなんていうことは。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)こころぐし【心ぐし】形容詞:心が晴れない。せつなく苦しい。(学研)
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」