●歌は、「上つ毛野佐野の舟橋取り離し親は放くれど我は離るがへ(東歌 14-3420)」である。
【佐野の舟橋】
「東歌(巻十四‐三四二〇)(歌は省略)この歌の『佐野』を栃木県の佐野市とみる説もあるが、これは高崎市上(かみ)佐野・佐野窪・下佐野の地方であろう。高崎市街の東南方につづき、烏(からす)川に沿うところである。・・・古代には佐野の池に、出水の時などとりはなしのできる舟橋がかかっていて、多野(たの)郡方面への要路ともなり、地方にきこえていたものであろう。・・・“上州佐野の舟橋をとりはなすように、親(母親)はわたしたちの間を遠ざけるが、わたしははなれるものか”の意で『がへ』は反語の『かは』の訛りであろう。つらぬいてやまない愛恋一途の抵抗をしめした歌だ。男女の愛情の疎外されがちな当時の農村生活では、若い人たちの共通の体験として共感をひくところが多く、地方に知られた佐野の舟橋といい、明快な内容といい、四・五句のくりかえしの語調といい、民謡の条件をゆたかにそなえた歌だ。」(「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)
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巻十四 三四二〇歌をみていこう。
◆可美都氣努 佐野乃布奈波之 登里波奈之 於也波左久礼騰 和波左可流賀倍
(作者未詳 巻十四 三四二〇)
≪書き下し≫上つ毛野佐野の舟橋(ふなはし)取り離(はな)し親は放(さ)くれど我(わ)は離(さか)るがへ
(訳)上野の佐野の舟橋、その板を引っぱぐように、親は二人の仲を引き割(さ)こうとするけれど、私としたことが、おいそれと割かれてたまるもんか。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
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(注)上三句は序。「放く」を起す。(伊藤脚注)
(注)さの【佐野】 の 舟橋(ふなはし): 群馬県高崎市佐野を流れる烏川にあった橋。「舟橋」は、舟を横に並べ、板をわたしたもの。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
(注)離るがへ:離されるもんか。ガへは反語の助詞。東国語。(伊藤脚注)
(注の注)がへ 終助詞:《接続》活用語の連体形に付く。〔反語〕…しようか、いや、けっして…しない。…するものか。 ※上代の東国方言。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
高崎市HPの「高崎市文化財情報:佐野の船橋歌碑」に次のように書かれている。
「船橋とは船をたくさん浮かべて橋のかわりにしたものです。・・・歌碑には船木(ふなき)観音の文字と、馬頭(ばとう)観音の線刻画像(せんこくがぞう)の下に、万葉仮名で、『かみつけの佐野の船はしとりはなし、親はさくれどわはさかるがへ』と刻まれています。これは、万葉集巻十四、東歌(あづまうた)の一首です。この碑は文政10(1827)年、高崎城下新町(現在のあら町)にある延養寺の住職良翁(りょうおう)が建てたものです。良翁は文学僧として知られ、『以呂波便蒙鈔(いろはべんもうしょう)』や、天明3(1783)年の浅間山噴火について記した『砂降記』などの著作を残しています。船橋はここから見下ろした佐野窪(さのくぼ)の田んぼの中に石宮があり、そこが橋のたもとであったと伝えられています。」
機会を見つけて訪れたいものである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「高崎市HP」