万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その183改)―京都府相楽郡和束町活道ヶ丘公園―万葉集 巻三 四七六

●歌は、「我が大君天知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束杣山」である。

 

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京都府相楽郡和束町活道ヶ丘公園碑と万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、京都府相楽郡和束町 活道ヶ丘公園 にある。

 安積親王の墓は、この歌碑のある活道ヶ丘公園の北東200mほどのところにある。

 

●歌をみていこう。

◆吾王 天所知牟登 不思者 於保尓曽見谿流 和豆香蘇麻山

             (大伴家持 巻三 四七六)

 

≪書き下し≫我(わ)が大君(おほきみ)天(あめ)知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束(わづか)杣山(そまやま)

 

(訳)わが大君がここで天上をお治めになろうとは思いもかけなかったので、今までなおざりに見ていたのだった、この杣山(そまやま)の和束山(わづかやま)を。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舎人大伴宿祢家持作歌六首」<十六年甲申(きのえさる)の春の二月に、安積皇子(あさかのみこ)の薨(こう)ぜし時に、内舎人(うどねり)大伴宿祢家持が作る歌六首>である。

 長歌(四七五歌)と反歌(四七六、四七七歌)は、左注に「右三首二月三日作歌」<右の三首は、二月の三日に作る歌>とあり、長歌(四七八歌)と反歌(四七九、四八〇歌)は、左注に、「右三首三月廿四日作歌」<右の三首は、三月の二十四日に作る歌>とある。

 

長歌(四七五歌)と反歌(四七七歌)をみていこう。

 

長歌― 

◆桂巻母 綾尓恐之 言巻毛 齊忌志伎可物 吾王 御子乃命 萬代尓 食賜麻思 大日本 久迩乃京者 打靡 春去奴礼婆 山邊尓波 花咲乎為里 河湍尓波 年魚小狭走 弥日異 榮時尓 逆言之 狂言登加聞 白細尓 舎人装束而 和豆香山 御輿立之而 久堅乃 天所知奴礼 展轉 埿打雖泣 将為須便毛奈思

              (大伴家持 巻三 四七五)

 

≪書き下し≫かけまくも あやに畏(かしこ)し 言はまくも ゆゆしきかも 我(わ)が大君(おほきみ) 皇子(みこ)の命(みこと) 万代(よろづよ)に 見(め)したまはまし 大日本(おほやまと) 久邇(くに)の都は うち靡(なび)く 春さりぬれば 山辺(やまへ)には 花咲きををり 川瀬(かはせ)には 鮎子(あゆこ)さ走(ばし)り いや日異(ひけ)に 栄ゆる時に およづれの たはこととかも 白栲(しろたへ)に 舎人(とねり)よそひて 和束山(わづかやま) 御輿(みこし)立たして ひさかたの 天(あめ)知らしぬれ 臥(こ)いまろび ひづち泣けども 為(せ)むすべもなし

 

(訳)心にかけて思うのもまことに恐れ多い。ましてや口にかけて申すのも憚(はばか)り多いことだ。わが大君、皇子の命が万代までもお治めになるはずの大日本(おおやまと)久邇の都は、物うち靡く春ともなれば、山辺には花がたわわに咲き匂い、川瀬には若鮎が飛び跳ねて、日に日に栄えていくその折しも、人惑わしの空言というのか、事もあろうに舎人たちは白い喪服を装い、和束山に皇子の御輿が出で立たれて、はるかに天上を治めてしまわれたので、伏し悶え涙にまみれて泣くのだが、今はどうにもなすすべがない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)安積皇子:聖武天皇の子

(注)かけまくも 分類連語 :心にかけて思うことも。言葉に出して言うことも。

(注)めす 【見す・看す】 お治めになる。ご統治なさる。▽「治む」の尊敬語。

(注)いやひけに 【弥日異に】( 副 )いよいよ日ましに。一日一日ごとに変わって。

(注)和束山:恭仁京の東北に隣接する和束町の山。安積皇子の墓がある。

(注)こいまろぶ 【臥い転ぶ】:ころげ回る。身もだえてころがる。

(注)ひづつ【漬つ】:ぬれる。泥でよごれる。

 

―短歌― 

◆足檜木乃 山左倍光 咲花乃 散去如寸 吾王香聞

               (大伴家持 巻三 四七七)

 

≪書き下し≫あしひきの山さえ光ろ咲く花の散りぬるごとき我が大君かも

 

(訳)あしひきの山のくまぐままで照り輝かせて咲き盛っていたその花が、にわかに散り失せてしまったような、われらの大君よ。

 

 大伴家持と安積親王の親交は、巻六 一〇四〇歌の題詞に、「安積親王(あさかのみこ)、左少弁藤原八束朝臣(させうべんふぢはらのやつかのあそみ)が家にて宴(うたげ)する日に、内舎人大伴宿禰家持が作る歌一首」とあるように、十六年甲申(きのえさる)の春の正月の五日に、正月を寿いでいるのである。しかし、同二月には、巻三 四七五歌の題詞、「十六年甲申(きのえさる)の春の二月に、安積親王の薨(こう)ぜし時に、内舎人大伴宿禰家持が作る歌六首」とあるように、挽歌を詠うという悲哀を味あうのである。

 特に三月二十四日に家持の歌「大伴の名負う靫(ゆき)帯びて万代(よろづよ)に頼みし心いづくにか寄せむ」<訳:靫負(ゆげい)の大伴と名の知られるその靫(ゆき)を身に付けて、万代までもお仕えしようと頼みにしてきた心、この心を今やいったいどこに寄せたらよいのか。(伊藤 博著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)>に、安積親王に望みをいかに託していたかが読み取れるのである。

 多治比・大伴・佐伯の諸氏が、反藤原仲麻呂派を結集していただけに打撃となり、奈良麻呂の変につながっていくのである。(天平十六年正月、難波行幸の途中病で恭仁京へ引返した安積親王は十三日に薨(こう)じたのである。この急死は、藤原仲麻呂による暗殺とする説は有力といわれている)

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「木津川市万葉集」(木津川市観光協会)                             

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林

 

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万葉歌碑を訪ねて(その182改)―京都府木津川市山城郷土資料館―万葉集 巻六 一〇五六

●歌は、「娘子らが続麻替懸くといふ鹿瀬の山時しゆければ都となりぬ」である。

 

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山城郷土資料館万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、京都府木津川市山城町 山城郷土資料館 にある。

 

●歌をみていこう。

◆「女+感」嬬 等之 續麻繋云 鹿脊之山 時之往者 京師跡成宿

                ( 田辺福麻呂 巻六 一〇五六)

        ※「『女+感』+嬬」=をとめ

 

≪書き下し≫娘子(をとめ)らが続麻(うみを)懸(か)くといふ鹿背(かせ)の山(やま)時しゆければ都となりぬ

 

(訳)おとめたちが續(う)んだ麻糸を掛けるという桛(かせ)、その名にちなみの鹿背の山、この山のあたりも、時移り変わって、今や皇城の地となっている。(伊藤 博 著 「万葉集二」 角川ソフィア文庫より)

(注)うみを 【績み麻】名詞:紡(つむ)いだ麻糸。麻や苧(からむし)の茎を水にひたし、蒸してあら皮を取り、その細く裂いた繊維を長くより合わせて作った糸。「うみそ」とも。

(注)うむ 【績む】(麻または苧(からむし)の繊維を)長くより合わせて糸にする。

 

 題詞は、「讃久迩新京歌二首幷短歌」<久邇の新京を讃(ほ)むる歌二首 幷(あは)せて短歌>である。

 恭仁京跡は、山城郷土資料館から国道163号線を信楽方面に約4kmの所にある。

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恭仁宮大極殿阯石碑

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山城國分寺阯 舊恭仁宮阯 石碑

 

 長歌(一〇五〇)と反歌二首(一〇五一、一〇五二)の歌群と、長歌(一〇五三)と反歌五首(一〇五四~一〇五八)と二つの歌群になっている。

第二群の長歌ならびに反歌(一〇五八)はブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その181)」にとりあげている。

 ➡ こちら181改

 

 

 

 ここでは、残りの、一〇五四、一〇五五、一〇五七歌をみてみよう。

 

◆泉川 往瀬乃水之 絶者許曽 大宮地 遷往目

                (田辺福麻呂 巻六 一〇五四)

 

≪書き下し≫泉川(いづみかわ)行く瀬の水の絶えばこそ大宮ところうつろひゆかめ

 

(訳)泉川、この川の行く瀬の水が絶えるようなことでもあれば、大宮所のさびれてゆくこともありはしようが・・・。(伊藤 博 著 「万葉集二」 角川ソフィア文庫より)

(注)泉川:木津川の古名

 

◆布當山 山並見者 百代尓毛 不可易 大宮處

                (田辺福麻呂 巻六 一〇五五)

 

≪書き下し≫布当山(ふたぎやま)山なみ見れば百代(ももよ)にも変わるましじき大宮ところ

 

(訳)布当山、この山の連なりを見ると、ここは百代ののちまで変わることなどあるはずのない大宮所だ。(伊藤 博 著 「万葉集二」 角川ソフィア文庫より)

(注)布当山(ふたぎやま)については三つの説がある。

①「恭仁宮背後の山々」説三上山〜海住山寺付近の山々

②「王廟山(湾漂山)」説木津川市加茂町井平尾・銭司 

③「鹿背山の別名」説木津川市鹿背山・加茂町法花寺野など

   (木津川市観光協会木津川市ゆかりの万葉集」より)             

 

◆鹿脊之山 樹立牟繁三 朝不去 寸鳴響為 鸎之音

                (田辺福麻呂 巻六 一〇五七)

 

≪書き下し≫鹿背(かせ)の山木立(こだち)を茂(しげ)み朝さらず来鳴き響(とよ)もすうぐひすの声

 

(訳)鹿背の山、この山には木立がいっぱい茂っているので、朝毎にやって来ては鶯が鳴き立てている。(伊藤 博 著 「万葉集二」 角川ソフィア文庫より)

(注)鹿背山:山城郷土資料館の木津川をはさんだ南東方向にある。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「木津川市ゆかりの万葉集」(木津川市観光協会

★「webjio古語辞書 学研全訳古語辞典」

 

 

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万葉歌碑を訪ねて(その181改)―京都府木津川市山城町 山城郷土資料館―万葉集 巻六 一〇五八

●歌は、「狛山に鳴くほととぎす泉川渡りを遠みここに通はず」である。

 

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京都府木津川市山城町 山城郷土資料館 万葉歌碑(作者未詳)


●歌碑は、京都府木津川市山城町 山城郷土資料館駐車場 にある。      

 

●歌をみていこう。

 

◆狛山尓 鳴霍公鳥 泉河 渡乎遠見 此間尓不通 一云渡遠哉不通有武

                         (田辺福麻呂 巻六 一〇五八)

 

≪書き下し≫狛山(こまやま)に鳴くほととぎす泉川渡りを遠みここに通はず<一には「渡り遠みか通はずあるらむ」とある>

 

(訳)狛山で鳴いている時鳥、その時鳥は、泉川の渡し場が遠いせいか、ここまでは通って来ない。<渡し場が遠いので通って来ないのか>(伊藤 博 著 「万葉集 二」(角川ソフィア文庫より)

(注)狛山:鹿背山の対岸の山

(注)泉川:木津川の古名

 

題詞は、「讃久迩新京歌二首幷短歌」<久邇(くに)に新京を讃(ほ)むる歌二首 幷(あは)せて短歌>である。長歌(一〇五〇歌)と反歌二首(一〇五一、一〇五二歌)の歌群と

長歌(一〇五三歌)と反歌五首(一〇五四~一〇五八歌)の歌群で構成されている。

 

この短歌が含まれている歌群(一〇五三~一〇五八歌)の長歌をみていこう。

 

◆吾皇 神乃命乃 高所知 布當乃宮者 百樹成 山者木高之 落多藝都 湍音毛清之 鸎乃 来鳴春部者 巌者 山下耀 錦成 花咲乎呼里 左壮鹿乃 妻呼秋者 天霧合 之具礼乎疾 狭丹頬歴 黄葉散乍 八千年尓 安礼衝之乍 天下 所知食跡 百代尓母 不可易 大宮處

                 (田辺福麻呂 巻六 一〇五三)

 

≪書き下し≫我(わ)が大君(おほきみ) 神の命(みこと)の 高知(たかし)らす 布当(ひたぎ)の宮は 百木(ももき)もり 山は木高(こだか)し 落ちたぎつ 瀬の音(おと)も清し うぐひすの 来鳴く春へは 巌(いはは)には 山下(やました)光り 錦なす 花咲きををり さを鹿の 妻呼ぶ秋は 天霧(あまぎ)らふ しぐれをいたみ さ丹(に)つらふ 黄葉(もみぢ)散りつつ 八千年(やちとせ)に 生(あ)れ付(つ)かしつつ 天(あめ)の下(した) 知らしめさむと 百代(ももよ)にも 変るましじき 大宮ところ

 

(訳)われらの大君、尊い神の命が高々と宮殿を造り営んでおられる布当の宮、このあたりには木という木が茂り、山は鬱蒼(うっそう)として高い。流れ落ちて逆巻く川の瀬の音も清らかだ。鴬(うぐいす)の来て鳴く春ともなれば、巌(いわお)には山裾も輝くばかりに、錦を張ったかと見紛う花が咲き乱れ、雄鹿が妻を呼んで鳴く秋ともなると、空かき曇って時雨が激しく降るので、赤く色づいた木の葉が散り乱れる・・・。こうしてこの地には幾千年ののちまでも次々と御子が現われ出で給い、天下をずっとお治めになるはずだとて営まれた大宮所、百代ののちまでも変わることなどあるはずもない大宮所なのだ、ここは。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)大君:ここは聖武天皇

(注)布当(ふたぎ)の宮:久邇京の皇居

(注)ましじき>ましじ:助動詞特殊型 活用{○/○/ましじ/ましじき/○/○}

〔打消の推量〕…ないだろう。…まい。

 

 

 ひとまず、明日香の万葉歌碑めぐりは終了である。これからは京都を中心に近隣市町村の歌碑を巡っていきたい。

 ネット検索しながら、木津川市山城郷土資料館➡和束町活道ケ丘公園➡加茂町恭仁大橋北詰の3箇所を見て回ることにした。

 山城郷土資料館は何度か行ったことがあったが駐車場の万葉歌碑はこれまで気が付かなかった。

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山城郷土資料館

 最近では、江戸時代の信楽焼の茶壷の字が読めないので、来館し、資料館の学芸員の方に読んでいただいたのである。当時は、今のような送り状のようなものはなく、茶壺に直接送り先を書いたそうである。写真の文字は、「城州上こま 椿井 綿屋忠右衛門」である。壷の後ろは、送り主の名「善右衛門」とある。「城州(じょうしゅう)」とあるが、「コトバンクデジタル大辞泉の解説)」にあるように「山城(やましろ)国の異称」である。宇治、和束等今では茶業が盛んでるが、それ以前は「綿業」が盛んであった。茶壺の宛名も「綿屋忠右衛門」とあるが、元々は名のとおり「綿屋」であったと思われる。

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信楽焼の茶壷

これについては、ブログ拙稿「ザ・モーニングセット181221(信楽焼の茶壷が語る山城国の歴史:綿業から茶業へ)に書いているのでそちらを参考にしていただければと思います。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

  

 

歌群の反歌については、次回のブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その182改)」でみていくことにしたい。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「ふるさとミュージアム山城ー京都府立山城郷土資料館ー」HP

★「コトバンクデジタル大辞泉の解説)」

★「信楽焼歴史図録―時代別 製品の推移―」

 

※20210705朝食関連記事削除、一部改訂

※20221221「ザ・モーニングセット181221(信楽焼の茶壷が語る山城国の歴史:綿業から茶業へ)」へリンク
 

万葉歌碑を訪ねて(その180改)―飛鳥川玉藻橋畔―巻七 一三八〇

●歌は、「明日香川瀬々に玉藻生ひたれどしがらみあれば靡きあらなくに」である。

 

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飛鳥川玉藻橋畔万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、奈良県高市郡明日香村祝戸 玉藻橋畔 にある。

  

●歌をみていこう。

 

◆明日香川 湍瀬尓玉藻者 雖生有 四賀良美有者 靡不相

                 (作者未詳 巻七 一三八〇)

 

≪書き下し≫明日香川瀬々(せぜ)に玉藻は生(お)ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに

 

(訳)明日香川の瀬ごとに玉藻は生えているけれど、しがらみが設けてあるので靡きあうことができないでいる。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)上三句は男女が相思相愛であることを歌い、しがらみは、仲を妨げる者の譬え。

 

 この前の歌も、題詞「寄河」の歌群で、明日香川を詠んでいるのでみてみよう。

 

◆不絶逝 明日香川之 不逝有者 故霜有如 人之見國

                  (作者未詳 巻七 一三八一)

 

≪書き下し≫絶えず行く明日香の川の淀めらば故(ゆえ)しもあるごと人の見まくに

 

(訳)いつもさらさらと流れ行く明日香の川がもし淀むようなことがあったら、何かわけがあるように人がみるでしょうに。

 

 「犬養孝氏揮毫の万葉歌碑マップ(明日香村)」によると、石舞台古墳の南西方向飛鳥川にかかる玉藻橋近くにある。

 明日香夢の旬菜館に車を止め、左手に石舞台方面を見ながら南に歩く。やがて、玉藻橋が見えて来る。向かって左手の橋のたもとに長方形の歌碑がある。

 

 犬養 孝氏は、その著「万葉の大和路」(旺文社文庫)のなかで、「飛鳥川は『万葉集』に出てくる川の中では、最高に多くて二十五回に及んでいて、如何に万葉びとの生活と密着しているかを物語っている。」書かれ、さらに、一三八〇歌に関して、「古代から田に水をひくために、しがらみ(竹や木で水をせきとめるようにしたもの)があって、いつもそれを見ている体験があればこそ、玉藻はのびてなびきゆれるが、邪魔があるため思う人に会えぬなげきを、『しがらみ』あれば靡きあえないと嘆くのだ。」と書いておられる。

 

 「明日香川瀬々の玉藻のうちなびき情(こころ)は妹に寄りにけるかも(巻一三 三二六七)」のように飛鳥川と生活が密着しているだけに玉藻のうち靡く姿を踏まえて愛しい人への思いを歌い上げているのである。

 

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玉藻橋から見た飛鳥川の清流

 この歌碑で、「犬養孝氏揮毫の万葉歌碑マップ(明日香村)」と「万葉歌碑データベース(奈良女子大)」をもとにした歌碑をほぼ巡り終えた。

 これからは近畿各県の万葉歌碑を訪ねて行きたいと考えている。

 玉藻のようにこころは歌碑に寄りにけるかもである。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「犬養孝氏揮毫の万葉歌碑マップ(明日香村)」

★「万葉歌碑データベース」(奈良女子大)

★「万葉の大和路」 犬養 孝/文 入江泰吉/写真 (旺文社文庫

 

※20210503朝食関連記事削除、一部改訂。 

万葉歌碑を訪ねて(その179改)―明日香村万葉文化館前交差点近く―万葉集 巻四 五一三

●歌は、「大原のこのいち柴のいつしかと我が思ふ妹に今夜逢へるかも」である。

 

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明日香村万葉文化館前交差点近くの万葉歌碑(志貴皇子

●歌碑は、奈良県高市郡明日香村 万葉文化館前交差点近く にある。

 

●歌をみていこう。

◆大原之 此市柴乃 何時鹿跡 吾念妹尓 今夜相有香裳

                 (志貴皇子 巻四 五一三)

 

≪書き下し≫大原のこのいち柴のいつしかと我(あ)が思ふ妹に今夜(こよひ)逢へるかも

 

(訳)大原のこの茂りに茂ったいち柴ではないが、いつ逢えるか何とか早くと思いつづけていたあなたに、今夜という今夜はとうとう逢うことができました。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 志貴皇子の歌は万葉集に六首収録されている。これまでにも紹介したが六首をみていこう。

 

◆婇女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久 (巻一 五一)

≪書き下し≫采女(うねめ)の袖吹きかへす明日香風(あすかかぜ)都を遠(とほ)みいたづらに吹く

(訳)采女の袖をあでやかに吹きかえす明日香風、その風も、都が遠のいて今はただ空しく吹いている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

◆葦邊行 鴨羽我比尓 霜零而 寒暮夕 倭之所念 (巻一 六四)

≪書き下し≫葦辺(あしへ)行く鴨の羽交(はが)ひに霜降りて寒き夕(ゆふへ)は大和(やまと)し思ほゆ

(訳)枯葦のほとりを漂い行く羽がいに霜が降って、寒さが身にしみる夕暮れは、とりわけ故郷大和が思われる。(同上)

 

◆牟佐ゝ婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨 (巻三 二六七)

≪書き下し≫むささびは木末(こぬれ)求(もと)むとあしひきの山のさつ男(を)にあひにけるかも

(訳)巣から追い出されたむささびは、梢(こずえ)を求めて幹を駆け登ろうとして、あしひきの山の猟師に捕えられてしまった。(同上)

 

◆大原之 此市柴乃 何時鹿跡 吾念妹尓 今夜相有香裳 (巻四 五一三)

≪書き下し≫大原のこのいち柴のいつしかと我(あ)が思ふ妹に今夜(こよひ)逢へるかも

(訳)大原のこの茂りに茂ったいち柴ではないが、いつ逢えるか何とか早くと思いつづけていたあなたに、今夜という今夜はとうとう逢うことができました。(同上)

 

◆石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨 (巻八 一四一八)

≪書き下し≫石走(いはばし)る垂水(たるみ)の上(うへ)のさわらびの萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも

(訳)岩にぶつかって水しぶきをあげる滝のほとりのさわらびが、むくむくと芽を出す春になった、ああ。(同「二」)

 

◆神名火乃 磐瀬乃社之 霍公鳥 毛無乃岳尓 何時来将鳴 (巻八 一四六六)

≪書き下し≫神(かむ)なびの石瀬(いはせ)の社(もり)のほととぎす毛無(けな)しの岡にいつか来鳴かむ

(訳)神なびの石瀬の森の時鳥(ほととぎす)よ、この時鳥は、毛無(けなし)の岡にはいつ来て鳴いてくれるのであろうか。(同「二」)

 

ちなみに、一四一八歌は、巻八の巻頭歌である。

 

 

 「犬養孝氏揮毫の万葉歌碑マップ(明日香村)」によると、万葉文化館東側の県道15号線(桜井明日香吉野仙)交差点「万葉文化館前」近くに歌碑の標がある。

 前日、地図上で、文化館から交差点付近をストリートビューを行うが見つけることができない。どうももう一本細い道が交差点の近くの一段下の所にあるようである。

果物販売所があり、その東側に車を止められそうな場所があるので、そこに車を止め、下に降りて行けば見つかるはずと見当をつける。

  当日は、バーチャルシミレーションのおかげで速やかに行動でき、歌碑をゲットした。夏の雑草が生い茂り、現代訳の小さめの歌碑は埋もれてしまっている。歌碑の後ろには果樹園が広がり、遠くには畝傍山が見えていた。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一、二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「犬養孝氏揮毫の万葉歌碑マップ(明日香村)」

★「万葉歌碑データベース」 (奈良女子大)

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

 

 

※20210718朝食関連記事削除、一部改訂
 

 

万葉歌碑を訪ねて(その178)―伝飛鳥板葺宮跡―

●歌は、「采女の袖吹き返す明日香風都を遠みいたづらに吹く」である。

 

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伝飛鳥板葺宮跡万葉歌碑(志貴皇子

●歌碑は、奈良県高市郡明日香村 伝飛鳥板葺宮跡にある。

 

 ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その175)」にも書いたが、この日(7月17日)の計画は、橋北側➡飛鳥寺➡橘寺西入口前➡橘寺東側明日香川沿い➡伝飛鳥板葺宮跡➡万葉文化館交差点➡祝戸玉藻橋畔」であった。

 

川原寺跡前のトイレの駐車場に車を止め、「橘寺西入口前」(バス停「川原」近く)の歌碑を見た後、「橘寺東側明日香川沿い」の歌碑を探してから一旦車に戻り、伝飛鳥板葺宮跡にいくことにしていた。

田んぼ道を橘寺に向かい、北側を廻り込み東門の方に進む。

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西門から田んぼの中の道を通って橘寺へ

 明日香川沿いとあるから、明日香川を探す。川の流れの音をたよりに坂道を下り、漸く川沿いにでる。橋を渡ってしばらく行くと、歌碑が見えて来た。しかし、周りは、なんとなく以前に見た景色である。歌碑は、「犬養孝氏揮毫の万葉歌碑マップ」にあった「飛鳥周遊歩道 南都銀行明日香支店付近の飛鳥川沿い」の歌碑である。前回は南都銀行明日香支店から上流へアプローチしたが、今回は、橘寺を経由して、上流から下流方向にアプローチしていたのだ。土地勘がないというのはこういうことである。

 疲れがどっと出る。気を取り直し、県道155号線「岡」交差点近くに行き着く。「伝飛鳥板葺宮跡」への案内板が見える。400mほどである。駐車場まで戻るのを止め、宮跡を目指すことにする。「飛ぶ鳥明日香」の明日香村役場を通り過ぎ、飛鳥郵便局を左折、200mほど行くと宮跡であった。

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「飛ぶ鳥の明日香の里」の碑と明日香村役場

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伝飛鳥板葺宮跡説明案内板

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伝飛鳥板葺宮跡風景


  「旅する明日香ネット」(明日香村観光ポータルサイト)によると、「乙巳の変大化改新)のはじまりの舞台となった場所。飛鳥宮跡は、調査で飛鳥板蓋宮(皇極天皇)だけでなく、飛鳥岡本宮舒明天皇)や、飛鳥浄御原宮(天武・持統両天皇)など、複数の宮が断続的に置かれたことが判明し、伝飛鳥板蓋宮跡から名称が変更されました。

継続的に発掘調査が行われ、石敷の広場や大井戸跡が出土しています。」と書かれている。平成28年に、「飛鳥宮跡」と変更されたようであるが、現地では、まだ「伝飛鳥板蓋宮跡」となっている。

 

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伝飛鳥板葺宮跡説明案内碑

●歌をみていこう。

 ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その155)」にとりあげた、甘樫丘中腹にあった歌碑と同じ歌である。

 

◆婇女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久

              (志貴皇子 巻一 五一)

 

≪書き下し≫采女(うねめ)の袖吹きかへす明日香風(あすかかぜ)都を遠(とほ)みいたづらに吹く

 

(訳)采女の袖をあでやかに吹きかえす明日香風、その風も、都が遠のいて今はただ空(むな)しく吹いている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)うねめ【采女】:古代以来、天皇のそば近く仕えて食事の世話などの雑事に携わった、後宮(こうきゆう)の女官。諸国の郡(こおり)の次官以上の娘のうちから、容姿の美しい者が選ばれた。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「犬養孝氏揮毫の万葉歌碑マップ(明日香村)」

★「万葉歌碑データベース」 (奈良女子大)

★「旅する明日香ネット」(明日香村観光ポータルサイト

 

●本日のザ・モーニングセット&フルーツフルデザート

 サンドイッチは、ロメインレタスとトマトそして焼き豚である。食パンは全粒粉入りで5枚切りを横カットして10枚切りの3枚使用である。デザートは、中央にキウイとバナナのスライスを交互に並べ、周りをクリムゾンシードレスの半カットをならべ、トンプソンも添えた。

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8月27日のザ・モーニングセット

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8月27日のフルーツフルデザート


                           

万葉歌碑を訪ねて(その177改)―橘寺西入口前―万葉集 巻二 二一〇

●歌は、「うつせみと思ひし時に取り持ちて我がふたり見し・・・」である。

 

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明日香村 橘寺西入口 万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、奈良県高市郡明日香村 橘寺西入口前 である。

 

●歌をみていこう。

 

◆打蝉等 念之時尓<一云宇都曽臣等念之> 取持而 吾二人見之 趍出之 堤尓立有 槻木之 己知碁智乃枝之 春葉之 茂之如久 念有之 妹者雖有 馮有之 兒等尓者雖有 世間乎 背之不得者 蜻火之 燎流荒野尓 白妙之 天領巾隠 鳥自物 朝立伊麻之弖 入日成 隠去之鹿齒 吾妹子之 形見尓置有 若兒乃 乞泣毎 取與 物之無者 鳥徳自物 腋挟持 吾妹子与 二人吾宿之 枕付 嬬屋之内尓 晝羽裳 浦不楽晩之 夜者裳 氣衝明之 嘆友 世武為便不知尓 戀友 相因乎無見 大鳥乃 羽易乃山尓 吾戀流 妹者伊座等 人云者 石根左久見手 名積来之 吉雲曽無寸 打蝉等 念之妹之 珠蜻 髪髴谷裳 不見思者

                                   (柿本人麻呂 巻二 二一〇)

 

≪書き下し≫うつせみと 思ひし時に<一には「うつそみと思ひし」といふ> 取り持ちて 我(わ)がふたり見し 走出(はしりで)の 堤(つつみ)に立てる 槻(つき)の木の こちごちの枝(え)の 春の葉の 茂(しげ)きがごとく 思へりし 妹(いも)にはあれど 頼めりし 子らにはあれど 世間(よのなか)を 背(そむ)きしえねば かぎるひの 燃ゆる荒野(あらの)に 白栲(しろたへ)の 天領巾(あまひれ)隠(がく)り 鳥じもの 朝立(あさだ)ちいまして 入日(いりひ)なす 隠(かく)りにしかば 我妹子(わぎもこ)が 形見(かたみ)に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに 取り与ふる 物しなければ 男(をとこ)じもの 脇(わき)ばさみ持ち 我妹子と ふたり我が寝(ね)し 枕付(まくらづ)く 妻屋(つまや)のうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども 為(せ)むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥(おほとり)の 羽がいひの山に 我(あ)が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根(いはね)さくみて なづみ来(こ)し よけくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば

 

(訳)あの子がずっとうつせみのこの世の人だとばかり思い込んでいた時に<うつそみのこの世の人だとばかり思い込んでいた>、手に取りかざしながらわれらが二人して見た、長く突き出た堤に立っている槻の木の、そのあちこちの枝に春の葉がびっしり茂っているように、絶え間なく思っていたいいとしい子ではあるが、頼りにしていたあの子ではあるが、常なき世の定めに背くことはできないものだから、陽炎(かげろう)の燃え立つ荒野に、真っ白な天女の領布(ひれ)に蔽(おほ)われて、鳥でもないのに朝早くわが家をあとにして行かれ、山に入り沈む日のように隠れてしまったので、あの子が形見に残していった幼な子が物欲しさに泣くたびに、何をあてごうてよいやらあやすすべも知らず、男だというのに小脇に抱きかかえて、あの子と二人して寝た離れの中で、昼はうら寂しく暮らし、夜は溜息(ためいき)ついて明かし、こうしていくら嘆いてもどうしようもなく、いくら恋い慕っても逢える見込みもないので、大鳥の羽がいの山に私の恋い焦がれるあの子はいると人が言ってくれるままに、岩を押しわけ難渋してやって来たが、何のよいこともない。ずっとこの世の人だとばかり思っていたあの子の姿がほんのりともみえないことを思うと。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)はしりで【走り出】家から走り出たところ。家の門の近く。一説に山裾(すそ)や堤などが続いているところ。「わしりで」とも。

(注)こちごち【此方此方】あちこち。そこここ。

(注)ひれ【領布】古代の女性が用いた両肩からかける布。別名 領巾、肩巾、比礼

(注)とりじもの【鳥じもの】枕詞:鳥のようにの意から「浮き」「朝立ち」「なづさふ」などにかかる。

(注)をとこじもの【男じもの】副詞:男であるのに。

(注)まくらづく【枕付く】分類枕詞:枕が並んでくっついている意から、夫婦の寝室の意の「妻屋(つまや)」にかかる。

(注)羽がひの山:妻を隠す山懐を鳥の羽がいに見立てたもので、天理市桜井市にまたがる竜王山か。

 

 題詞は、「柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首幷短歌」<柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀慟(きふけつあいどう)して作る歌二首幷(あは)せて短歌>である。柿本人麻呂の「泣血哀慟歌」と呼ばれている。構成は、「二〇七(長歌)、二〇八、二〇九(反歌)」と「二一〇(長歌)、二一一、二一二(反歌)」の歌群である。さらにもう一つの歌群があり、「或本の歌に日はく」とあり、長歌一首と短歌三首が収録されている。

 

 二一一と二一二歌も見ておこう。

 

◆去年見而之 秋乃月夜者 雖照 相見之妹者 弥年放

               (柿本人麻呂 巻二 二一一)

 

≪書き下し≫去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせども相見(あひみ)し妹はいや年(とし)離(さか)る

 

(訳)去年見た秋の月は今も変わらず照らしているけれども、この月を一緒に見たあの子は、年月とともにいよいよ遠ざかってゆく。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 

◆衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑往者 生跡毛無

                (柿本人麻呂 巻二 二一二)

 

≪書き下し≫衾道(ふすまぢ)を引手(ひきで)の山に妹を置きて山道(やまぢ)を行けば生けりともなし

 

(訳)衾道よ、その引手の山にあの子を置き去りにして、山道をたどると、生きているとの思えない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

(注)ふすまぢ【衾道】を: 枕詞 地名「引手(ひきて)の山」にかかる。語義・かかり方に諸説あるが、

 

 

 人麻呂は「宮廷歌人」である。「私」の感情で歌をうたうのではなく、「公」の立場でうたうのである。しかし、この歌碑にある長歌を含む歌群は、妻の死を悲しむことを歌いうることを示したということが万葉集に対し大きなインパクトを与えたと考えられている。

 神野志隆光氏は「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」のなかで、「妻の死は私的なものです。それを歌にするとはどういうことか。伊藤博『歌俳優の哀歌』(塙書房)が、『この二首の文体は、終始、他人を意識し他人に語りかけたような表現を採用している』とのべたことが本質を衝いています。伊藤は『歌による私小説とでも称すべき性格』とも言いましたが、いいなおせば、妻の死を歌うことが、他者に示す歌として可能であるものとして実現して見せたということです。」と述べておられる。

  上にも書いたが、「二〇七(長歌)、二〇八、二〇九(反歌)」ならびに「二一〇(長歌)、二一一、二一二(反歌)」の歌群と「或本の歌に日はく」とある「二一三(長歌)、二一四~二一六(短歌)」の歌群が収録されている。

 「或本の歌に日はく」としつつも、万葉集には、「作品」として収録されているのである。

 このように、「泣血哀慟歌」ならびに「或る歌の本の日はく」の歌をも収録していることが、万葉集万葉集たる所以であろう。

 

 

 歌碑は、マップによると川原寺跡前の道路沿いのトイレの近くである。トイレ前に車を止め探すことに。トイレの西側手に少し上りの坂道がある。そこを上るとすぐ左手に歌碑があった。

 

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橘寺西入口と手前の万葉歌碑

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか」―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 

                          (東京大学出版会

★「犬養孝氏揮毫の万葉歌碑マップ(明日香村)」

★「万葉歌碑データベース」 (奈良女子大)

 

 

※20210510朝食関連記事削除、一部改訂