万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

皇族でない藤原鎌足は、鏡王女を正妻とし、後には采女も得ている(万葉歌碑を訪ねて―その112―)

萬葉集巻二 九一歌から九五歌は一つの歌群をなしある種複雑は人間模様を背景とした宮廷恋物語である。臣下藤原鎌足は皇子の皇女鏡王女を正妻とし、さらに采女を得ている。中大兄皇子天智天皇)の片腕として大化の改新で活躍その後も忠臣として仕えた論功行賞であろうか。

 

●サンドイッチは、レタスととまとそして焼き豚である。ご近所さんからいただいたにんにくニンニクとジャガイモをオブジェとした。デザートは、霧子のガラス容器に盛り付けた。

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6月17日のザ・モーニングセット

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6月17日のフルーツフルデザート

 

●万葉歌碑を訪ねて(その112)

 「君はもや安見児得たり皆人の得がてにすといふ安見児得たり」

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奈良県桜井市談山神社境内万葉歌碑(藤原鎌足

 

この歌碑は、多武峰談山神社神廟拝所前にある。                    

 

談山神社の御祭神は藤原鎌足である。

神社の由緒等については、大和多武峰談山神社HPより引用させていただく。

「舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。 この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、 聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、 西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。 後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。

ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。 天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、 大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を賜りました。 藤原の姓はここに始まります。

足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。 大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。」

 

 観光シーズンではないので、神社に近い第5駐車場に車を止める。3台ほど止まっていた。正面入山入口受付は、閉まっていて、西入山入口受付で、手続する旨書いてあった。

 西入山入口受付で入山料を支払い案内パンフレットをもらう。

 万葉歌碑の場所を尋ねる。神廟拝所の方を指さしその右手側にあると教えてもらう。

歌碑を撮影。

 それから、本殿、楼門、拝殿に向かう。そして十三重塔へ。

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楼門から見た本殿(左側)

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西宝庫前の石段から楼門を見る

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十三重の塔

 談山神社は紅葉の名所として知られているが、確かにこれが紅葉していたらと思う箇所がいくつもあった。もっとも観光シーズンであれば、人の頭の写った写真になるのは避けられない。

 静けさの中境内を独り占めした思いで散策したのである。

 

 歌をみてみよう。

◆吾者毛也 安見兒得有 皆人乃 得難尓為云 安見兒衣多利

                 (藤原鎌足 巻二 九五)

 

≪書き下し≫我れはもや安見児得たり皆人(みなひと)の得かてにすといふ安見児得たり

 

(訳)おれはまあ安見児を得たぞ。お前さんたちがとうてい手に入れがたいと言っている、この安見児をおれは我がものとしたぞ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「内大臣藤原卿娶采女安見兒時作歌一首」<内大臣藤原卿、采女安見児を娶る時に作る歌一首>

 

 藤原鎌足の正妻は鏡王女である。

 この歌は、鏡王女との結婚後のことで、鎌足は、采女(うねめ)安見児(やすみこ)を娶りえて有頂天になっていることを歌っている。

 「采女」とは、天皇の御膳その他について奉仕する宮中の女官である。諸国の郡少領(次官)以上の娘で容姿端正なものが選ばれるのである。采女は、天皇に所属するいわば、「物体的人間」であり、恋愛はかたく禁じられていた。まさに、「皆人の得難(えかて)にす」る者であった。それを鎌足は得たのである。功臣鎌足への特別待遇の何物でもない。それだけに喜びも一入だったに違いない。

 

 万葉集の相聞歌は、実質的には、天智天皇と鏡王女との間にとりかわされた、九一歌、九二歌から始まる。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて―その109―」で両歌にふれているのでそちらも参考にしていただければと思います。

 中大兄皇子天智天皇)の愛を得ていた鏡王女は、皇子の片腕となって「大化の改新」で活躍した鎌足と結婚している。臣下であった鎌足(40歳の時である)が皇子の皇女である王女と結婚できたのか、それは忠臣に対する皇子の心遣い、いわば一種の報酬であったと考えられる。

鏡王女と藤原鎌足との間に交わされた歌が、九三歌、九四歌である。

 伊藤 博氏は、「萬葉集相聞の世界」(塙書房)の中で、

「『近江大津宮御宇天皇』(天智天皇の御代)なる標題のもとに、」九一歌から九五歌の順に「まとめて配列されている。これらは、同じ時のものではなかった。けれども、『天皇と王女、王女と鎌足鎌足采女』という関係で、一連のものとしてまとめられた五つの歌は、優に、一つのロマンス(恋物語)を構成している。五つの歌は、後の読者には、体系を持つ一まとまりの歌群として、(中略)その複雑微妙な対人関係を、うたい継がれたものであるまいか。」と書かれている。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「萬葉集相聞の世界」 伊藤 博 著 (塙書房

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)