万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その129改)―奈良県橿原市南浦町万葉の森(9)―万葉集 巻十九 四一四〇

●歌は、「吾が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りたるかも」である。

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奈良県橿原市南浦町万葉の森万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、奈良県橿原市南浦町万葉の森(9)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遺在可母

        (大伴家持    巻十九 四一四〇)

 

≪書き下し≫我が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも

 

(訳)我が園の李(すもも)の花なのであろうか、庭に散り敷いているのは。それとも、はだれのはらはら雪が残っているのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」角川ソフィア文庫より)

(注)はだれ 【斑】:「斑雪(はだれゆき)」の略 

※はだれゆき 【斑雪】:はらはらとまばらに降る雪。また、薄くまだらに

降り積もった雪。「はだれ」「はだらゆき」とも。

                  (weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 題詞は、「天平勝寶二年三月一日之暮眺矚春苑桃李花作二首」<天平勝寶(てんぴょうしょうほう)三年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺矚(なが)めて作る歌二首>である。

 

 もう一首をみていこう。こちらは、巻十九の冒頭歌である。

 

◆春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立▼嬬

               (大伴家持 巻十九 四一三九)

※           ▼は「女+感」であり「女+感心」「嬬」で「をとめ」

 

≪書き下し≫春の園、紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ)

 

(訳)春の園、園一面に紅く照り映えている桃の花、この花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つ娘子(おとめ)よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」角川ソフィア文庫より)

(注)いでたつ:出て行ってそこに立つ

 

 大伴家持天平一八年(七四六年)から天平勝宝三年(七五一年)まで、越中国守として赴任している。

 家持生涯の歌が、四八五首ほどあるといわれているが、この五年間に二二〇首と半数近い歌を作っている。花を詠ったのは一三五首で、越中時代に七十首と言われている。犬養 孝氏は、「万葉の人びと」(新潮文庫)のなかで、「大伴家持越中生活というのは、歌人家持にとってこれほど大事な時はないと思うんです。歌人家持が生まれるのも、越中生活があったからだと思います。」と書いておられる。都を遠く離れた「天ざかる鄙」である越中に五年も暮らすことになったので、やりきれない思いが強く、また望郷の念も強かったと思われる。そうした思いを紛らわすために、歌を作る、歌の勉強に没頭したと考えられる。花の歌が多いのも、花を通して妻や都への思いを訴えていたようである。

 

 飛鳥川雷橋右岸上流100m位のところに、「なでしこ」と銘打った歌碑があった。作歌名も揮毫者名もなく、民家の家の前の道端にあり、ベコニアの花がその前に植えてあるので、今様の歌の歌碑だと勝手に判断したのである。せっかく目の前にありながらで万葉歌碑ではないと思い撮影もしなかったが、後で調べると大伴家持の歌碑であることが分かった。写しておいて違えば消去すればよいのだが、なぜか写す気にもならなかったのである。昨日の明日香村犬養孝揮毫万葉歌碑めぐりの帰路改めて撮影したのであった。

 今日、家持の花の歌の数が多いのを知り、改めてこの「なでしこ」の歌を調べてみた。巻八 部立「春相聞」の冒頭歌であり、妻になった大伴坂上家之大嬢に贈った歌と知ったのである。「我がやどに蒔きしなでしこいつしかも花に咲きなむなそへつつ見む」(巻八 一四四八)

今日は、己の不勉強さをいやというほど思い知らされたのである。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)    

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

 

※20230415朝食関連記事削除、一部改訂