●歌は、「御食向かふ南淵山の巌には降りしはだれか消え残りたる」
●歌をみてみよう。
◆御食向 南淵山之 巖者 落波太列可 削遺有
(柿本人麻呂 巻九 一七〇九)
≪書き下し≫御食(みけ)向(むか)ふ南淵山(みなぶちやま)の巌(いはほ)には降りしはだれか消え残りたる
(訳)南淵山の山肌には、いつぞや降った薄ら雪が消え残っているのであろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)みけむかふ【御食向かふ】分類枕詞:食膳(しよくぜん)に向かい合っている「䳑(あぢ)」「粟(あは)」「葱(き)(=ねぎ)」「蜷(みな)(=にな)」などの食物と同じ音を含むことから、「味原(あぢふ)」「淡路(あはぢ)」「城(き)の上(へ)」「南淵(みなぶち)」などの地名にかかる。
(注)はだれ 【斑】名詞:「斑雪(はだれゆき)」の略。(うっすらと積る状態)
題詞は、「獻弓削皇子歌一首」<弓削皇子に献る歌一首>である。
左注は、「右柿本朝臣人麻呂之歌集所出」<右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づるところなり>である
堀内民一氏は、その著「大和万葉―その歌の風土」の中で、「飛鳥川上の南淵山の巌とよんでいるところが重要なのである。古代の祭祀場となった南淵山を考えると、その巌に消え残った斑雪(はだれ)が、点々と白く見えるという風景には、飛鳥川の奥の霊地を想定するうえでも、きわめて貴重な歌である。『御食向う』という枕詞が、そのまま古代のまつりを暗示して、南淵山にはたらきかけている。」と述べておられる。
歌碑マップによれば、「坂田寺跡」とあるので、入力するも、カーナビではヒットしない。スマホで検索した坂田寺跡の住所を入力するが、「坂田」までであり「坂田周辺の案内」とのメッセージである。どこかで案内板が出ているだろうと、ナビにしたがい車を走らせる。
途中からは、上り坂もいいところである。アクセルをほぼ目いっぱいでやっと登れる感じである。いくらなんでも、これはおかしいのではと引き返す。
坂を下りて来る途中で「都塚古墳」の案内説明板があったので休憩がてら見学しようと、車を降り、撮影。 マップを見ると、坂田寺跡からは随分と離れてしまっている。
もう一度、坂田寺跡付近と思しき所を探す。バス停「坂田」があった。この前に比較的広い場所があるので、そこに車を止める。スマホナビの案内に従って歩く。しばらく行くと「マラ石」を見つける。そこから道路を横切りまた戻る感じで右折、上り阪となる。右手に、「坂田寺跡」の碑があり、そこから少し上ったところに歌碑があった。ここも結局、遠回りである。坂田寺跡からバス停「坂田」までは、すぐ近くであった。以前、「地図が読めない○○○と云々」という本があったが、全く地図が読めない。観光地でも力が入っていないのか、案内看板も少ないのが致命的。
場所が確認できれば、手品の種明かしみたいなものである。「な~んだ」のひとことである。
坂田寺跡の説明案内板に、坂田寺について書かれている。持統天皇代に、大宮大寺、飛鳥寺、川原寺、豊浦寺とともに飛鳥五大寺の一つであった。鞍作氏の氏寺で、渡来人の立てた寺としては最古で、尼寺であったという。飛鳥川上の南淵山の麓といった地理的な理由ではないと思うが、この寺跡になぜこの歌碑が立てられたのかが理解できない。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社)
★「犬養孝揮毫万葉歌碑マップ(明日香村)」
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
※20210503朝食関連記事削除、一部改訂