万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その234)―大津市皇子が丘 JR大津京駅前―万葉集 巻一 二〇・二一

 

●歌は、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(額田王)と

「紫草のにほえる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも」(大海人皇子)である。

 

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大津市皇子が丘 JR大津京駅前万葉歌碑(額田王大海人皇子)

●歌碑は、大津市皇子が丘 JR大津京駅前にある。

 

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JR大津京駅

   額田王の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その170)」で、大海人皇子の歌については、「同(その171)」で紹介している。

 

額田王の歌をみていこう。

◆茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

             (額田王 巻一 二〇)

 

 

≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る

 

(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。

(注)むらさき 【紫】①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。

(注)むらさきの 【紫野】:「むらさき」を栽培している園。

(注)しめ【標】:神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。

 

  題詞は、「天皇遊獦蒲生野時額田王作歌」<天皇(すめらみこと)、蒲生野(かまふの)の遊狩(みかり)したまふ時に、額田王が作る歌>である。

(注)天皇天智天皇

(注)みかり【遊獦】:天皇が狩りをされた、すなわち、薬猟り(くすりがり)をされたこと。薬猟りとは、不老長寿の薬にするために、男は鹿の袋角(出始めの角)を、女は薬草をとる、という行事をいう。

大化の改新の立役者、中大兄皇子は西暦667年に飛鳥から近江に移り、翌年近江大津宮で即位した。天智天皇である。

 

 もう一首の大海人皇子の歌をみていこう。

 

◆紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方

       (大海人皇子 巻一 二一)

 

≪書き下し≫紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あ)れ恋(こ)ひめやも

 

(訳)紫草のように色美しくあでやかな妹(いも)よ、そなたが気に入らないのであったら、人妻と知りながら、私としてからがどうしてそなたに恋いこがれたりしようか。(伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

題詞は、「皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇 謚日天武天皇」<皇太子(ひつぎのみこ)の答へたまふ御歌 明日香(あすか)の宮に天の下知らしめす天皇、謚(おくりな)して天武天皇(てんむてんのう)といふ>である。

(注)皇太子:大海人皇子(後の天武天皇

 

  左注は、「紀日 天皇七年丁卯夏五月五日縦獦於蒲生野于時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉従焉」<紀には「天皇の七年丁卯(ひのとう)の夏の五月の五日に、蒲生野(かまふの)に縦猟(みかり)す。時に大皇弟(ひつぎのみこ)・諸王(おほきみたち)、内臣(うちのまへつきみ)また群臣(まへつきみたち)、皆悉(ことごと)に従(おほみとも)なり」といふ>である。

 

  大化の改新のもうひとりの立役者藤原鎌足の伝記「大織冠伝」に、浜楼(浜御殿)での宴会の席で、大海人皇子が兄である天皇の前で、酔った勢いで、槍で床を突き刺したという事件があったという。政治的な問題や、額田王をめぐっての鬱積したものがあったのかもしれない。天皇は不敬だと、ただちに死を命じるものの、鎌足が間をとりなしたという。鎌足は、時代をみすえ、大海人皇子の時代がくると読んでいたのかもしれない。

 

 天智天皇は、近江大津宮で、伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)との間に生まれた大友皇子を皇太子にしたのである。古代において母親の出自(しゅつじ)が良くないと人々が支持しないのである。一方、大海人皇子は人望がある。天智天皇大友皇子を皇太子として藤原鎌足を中軸に力のバランスをとっていたのである。しかし、天智天皇八年十月に鎌足が亡くなり均衡が破れたのは言うまでもない。火種はくすぶりやがて壬申の乱となっていくのである。

 

「日本書記」によると、天智天皇十年(671年)十月、病床にある天皇から後事を託された大海人皇子(後の天武天皇)は、固辞し、出家して吉野に入ったとある。時の左大臣、右大臣を宇治まで見送りに行かせたという。この時に、「虎に翼を着けて放てり」と述べたという。十二月に天智天皇が亡くなる。

  672年六月吉野を出た大海人皇子は、鈴鹿山脈を越え、桑名を経て、今日の関ヶ原(当時は和射美<わざみ>が原)を拠点とし近江に攻め込むのである。七月、瀬田川での決戦で近江方が敗走し、大友皇子自死、終幕を迎えたのである。九月に飛鳥に戻り、十二月に飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)で天武天皇として即位するのである。

   神業的な1か月での政変である。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「びわ湖大津 光くんマップ(大津市観光地図)」(大津市・(公社)びわ湖大津観光協会)」

★「大津市ガイドマップ」(㈱ゼンリン 協力:大津市

 

●本日のザ・モーニングセット&フルーツフルデザート

  サンドイッチは、ロメインレタスと焼き豚である。デザートは、立体的に作りたくなり、リンゴのカットを組み合わせた。柿、赤と緑のブドウ、バナナで加飾した。

 

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10月27日のザ・モーニングセット

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10月27日のフルーツフルデザート