―その839―
●歌は、「我妹子が形見の合歓木は花のみに咲きてけだしく実にならじかも」である。
●歌碑(プレート)は、高岡市伏木一宮 高岡市万葉歴史館四季の庭(12)にある。
●歌をみていこう。
この歌は、紀女郎との贈答歌四首のうちの一首である。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その487)」で紹介している。
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◆吾妹子之 形見乃合歓木者 花耳尓 咲而蓋 實尓不成鴨
(大伴家持 巻八 一四六三)
≪書き下し≫吾妹子(わぎもこ)が形見の合歓木(ねぶ)は花のみに咲きてけだしく実(み)にならじかも
(訳)あなたが下さった形見のねむは、花だけ咲いて、たぶん実を結ばないのではありますまいか。(同上)
(注)けだし【蓋し】副詞①〔下に疑問の語を伴って〕ひょっとすると。あるいは。②〔下に仮定の表現を伴って〕もしかして。万一。③おおかた。多分。大体。(学研)
―その840―
●歌は、「ほととぎす今来鳴きそあやめぐさかづたくまでに離る日あらめや」である。
●歌碑(プレート)は、高岡市伏木一宮 高岡市万葉歴史館四季の庭(13)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「詠霍公鳥二首」<霍公鳥を詠む二首>である。
◆霍公鳥 今来喧曽无 菖蒲 可都良久麻泥尓 加流ゝ日安良米也 <毛能波三箇辞闕之>
(大伴家持 巻十九 四一七五)
≪書き下し≫ほととぎす今来鳴(きな)きそむあやめぐさかづらくまでに離(か)るる日あらめや <も・の・は、三つの辞は欠く>
(訳)時鳥が今やっと来て鳴きはじめた。菖蒲草(ああやめぐさ)を縵(かずら)にする五月の節句まで、声の途絶える日などあるものか。<「も・の・は」の三つの辞は省いてある。>「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より
(注)-そむ【初む】接尾語〔動詞の連用形に付いて〕:…し始める。初めて…する。「言ひそむ」「聞きそむ」「咲きそむ」「立ちそむ」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)あやめぐさかづらくまでに:菖蒲を縵にする五月の節句まで
(注)離(か)るる日あらめや:ここを離れてどこかへ行ってしまう日などあるものか。
もう一首の方もみてみよう。
◆我門従 喧過度 霍公鳥 伊夜奈都可之久 雖聞飽賦不足 <毛能波氐尓乎六箇辞闕之>
(大伴家持 巻十九 四一七六)
≪書き下し≫我が門(かど)ゆ鳴き過ぎ渡るほととぎすいやなつかしく聞けど飽きたらず <も・の・は・て・に・を、六つの辞は欠く>
(訳)我が家の門を鳴いて通り過ぎる時鳥、その声はことさら懐かしく、聞いても聞いても飽き足りるということがない。<も・の・は・て・に・を、六つの辞は省いてある>(同上)
四一七五、四一七六歌は、歌に多用する助詞を制限した上で、歌を作るという一種の遊びである。
これらの歌に関してもう少し知りたいと、検索していたら、勝山幸人氏の「言葉遊びと誦文の系譜4」(静岡大学学術リポジトリ)に次のように書かれていた。「いろは」歌まで言及されているので引用させていただく。
「(前略)使用頻度の高いこれらの助詞を、ここではいっさい使わない。そういうルールで歌を詠むというのが、ここでの生命線になっているのです。これに関連したことは、時代はちょっと飛んで平安時代になりますが、勅撰集の『古今和歌集』(905)巻十八雑歌下の歌にも見出せます。その歌は、よみ人知らずの歌として紹介されているものですが、
「世の憂き目見えぬ山路へ入らむには 思ふ人こそほだしなりけれ(955)」
とあります。これも意味は簡単に理解できますね。出家しようにも、恋人が妨げになってできないでいるという、ただそれだけの歌です。しかし、ここにもある技巧が凝らされています。これも全文を仮名で書いてみればわかると思います。31個の仮名文字を1度も重複させていません。どうですか、おもしろいですね。このように、使ってはいけない文字を定めるとか、また1度使った文字は重ねて使えないとか、そういったことが、のちに「いろは」歌のようなすごい誦文ができる伏線になっていたのかもしれません。(後略)」
「誦文」の読みと意味は、「(前略)本書では〈誦文〉を呉音で読むこととしますが、「ズモン」と直音には読まずに、「呪文」の読み方に準じて、「ジュモン」と読む。その意味は、言葉遊びの一形式であって、日本語のすべての仮名を1回ずつ使った文字の列なり。または、規則的に配列された音の図表。そう考えておきたいと思います(後略)」とされている。
まだまだ万葉集から教えられることが多く、日々のブログ書きがこれほどまでに楽しいとは。有難いことである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「言葉遊びと誦文の系譜4」 勝山幸人 著(静岡大学学術リポジトリ)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「高岡市万葉歴史館HP」
★「万葉歌碑めぐりマップ」 (高岡地区広域圏事務組合)