万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1122)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(82)―万葉集 巻十 一八三九

●歌は、「君がため山田の沢にゑぐ摘むと雪消の水に裳の裾濡れぬ」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(82)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(82)にある。

 

●歌をみていこう。

             

◆為君 山田之澤 恵具採跡 雪消之水尓 裳裾所沾

               (作者未詳 巻十 一八三九)

 

≪書き下し≫君がため山田の沢(さは)にゑぐ摘(つ)むと雪消(ゆきげ)の水に裳(も)の裾(すそ)濡れぬ               

 

(訳)あの方のために、山田のほとりの沢でえぐを摘もうとして、雪解け水に裳の裾を濡らしてしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)えぐ:〘名〙 (あくが強い意の「えぐし(蘞)」から出た語) 植物「くろぐわい(黒慈姑)」の異名。一説に「せり(芹)」をさすともいう。えぐな。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)ほとり【辺】名詞:①辺境。果て。②そば。かたわら。近辺。③関係の近い人。縁故のある人。(学研)

 

 歌碑(プレート)には、「ゑぐ」は「クログワイ」と説明があるが、植物解説板はない。

 

この歌ならびにクログワイについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その785)」で紹介している。

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 「ゑぐ」を詠んだ歌は二首収録されている。もう一首もみてみよう。

 

◆足桧之 山澤徊具乎 採将去 日谷毛相為 母者責十方

                   (作者未詳 巻十一 二七六〇)

 

≪書き下し≫あしひきの山沢(やまさわ)ゑぐを摘(つ)みに行かむ日だにも逢はせ母は責(せ)むとも

 

(訳)あの山の沢のえぐを摘みに行くその日だけでも逢って下さいましな。母さんが二人の仲を責め立てようと。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1117)」で紹介している・

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 「ゑぐ」を摘むという、「ゑぐ」ということばの響きは逆に、一八三九歌は、「君がため」、「山田の沢」、「雪消の水」「裳の裾濡れぬ」と、美しい言葉をより美しくさらに透明感を漂わす効果となって、君への思いがより鮮烈に響くのである。

 

 二七六〇歌にあっても、摘みに行くのは「ゑぐ」ではあるが、「母は責むとも」摘みにいく「日だにも逢はせ」と、より強烈なメッセージ性を浮かび上がらせている。真剣な思いを伝えようとする歌である。

 

 結婚するまでに、お互いが逢うにあたっては、二人にとって特に女側の「母」は、強烈な 壁である。二七六〇歌では「母は責むとも」と、ある意味不退転の覚悟を語っている。このように、「母」の目をかすめても逢おうとする強い思いがほとばしり出ている。

 

強烈な「母」の壁を意識した、もう一首(旋頭歌)をみてみよう。

 

 

◆玉垂 小簾之寸鶏吉仁 入通来根 足乳根之 母我問者 風跡将申

                   (作者未詳 巻十一 二三六四)

 

≪書き下し≫玉垂(たますだれ)の小簾(をす)のすけきに入(い)り通ひ来(こ)ねたらちねの母が問(と)はさば風(かぜ)と申さむ

 

(訳)玉垂の簾(すだれ)のこの隙間にそっと入って通って来て下さいな。母さんが何の音と尋ねたら、「風」と申しましょう。(同上)

(注)たますだれ【玉簾】名詞:すだれの美称。美しいすだれ。「たまだれ」とも。 ※「たま」は接頭語。(学研)

(注の注)たまだれの【玉垂れの】分類枕詞:緒(お)で貫いた玉を垂らして飾りとしたことから「緒」と同じ音の「を」にかかる。(学研)

(注)すけき 名詞;ほんの少しのすきま。 ※「透(す)き明(あ)き」の変化した語か。(学研)

 

 必死に逢おうとする女性の、「母」という壁に挑む歌である。なにか微笑ましさも伝わって来る歌である。「母」は女として娘の頃を思い出しながら、見て見ぬ振りをするのであろうか。

 

 必死に逢おうとするが、「母」の壁に阻まれ嘆く男の歌もある。これもみてみよう。

 

◆霊合者 相宿物乎 小山田之 鹿猪田禁如 母之守為裳  <一云 母之守之師>

                  (作者未詳 巻十二 三〇〇〇)

 

≪書き下し≫魂合(たまあ)へば相(あひ)寝(ぬ)るものを小山田(をやまだ)の鹿猪田(ししだ)守(も)るごと母し守(も)らすも  <一云 母が守らしし>

 

(訳)二人の魂が通じ合えば共寝できるというのに、まるで山の田んぼの鹿猪(しし)の荒らす田を見張りするように、あの子のおっかさんが見張りをしておいでだ。<あの子のおっかさんが見張りをしておいでだったよ。>(同上)

(注)たまあふ【魂合ふ】自動詞:心が通じ合う。魂が結ばれる。(学研)

(注)ししだ【猪田・鹿田】〘名〙: 猪(いのしし)や鹿(しか)などが出て荒らす田。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 「鹿猪田を守るごと母し」のフレーズで、「鉄壁の母」を浮かび上がらせる。思わず吹き出してしまうのである。

 

 「母」の壁が「鹿猪田を守る」ようにガードが固いと、それ故に二人の恋の行方に暗雲が立ち込める。そのような心境を詠った歌もみてみよう。

 

 

◆足千根乃 母尓障良婆 無用 伊麻思毛吾毛 事應成

                  (作者未詳 巻十一 二五一七)

 

≪書き下し≫たらちねの母に障(さは)らばいたづらに汝(いまし)も我(わ)れも事のなるべき

 

(訳)母さんに邪魔をされたら、ただ空しくて、あなたも私もせっかくの仲が台無しになってしまうでしょう。(同上)

(注)さはる【障る】自動詞:①妨げられる。邪魔される。②都合が悪くなる。用事ができる。(学研)

(注)いたづらなり【徒らなり】形容動詞:①つまらない。むなしい。②無駄だ。無意味だ。③手持ちぶさただ。ひまだ。④何もない。空だ。(学研)

(注の注)いたづらに(台無しに)「なるべき」(なってしまうでしょう)に続く。

(注)いまし【汝】代名詞:あなた。▽対称の人称代名詞。親しんでいう語。(学研)

 

 恋する二人と「母」の攻防、万葉集には、かかる歌も収録されているのである。おそるべし万葉集である。

 改めて万葉集の壁を見た思いである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉びとの一生」 池田弥三郎 著 (講談社現代新書

★「古代の恋愛生活 万葉集の恋歌を読む」 古橋信孝 著 (NHKブックス)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典