万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1123)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(83)―万葉集 巻二十 四一六九

●歌は、「・・・白玉の見が欲し御面直向ひ見む時までは松柏の栄えいまさね・・・」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(83)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(83)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「為家婦贈在京尊母所誂作歌一首 幷短歌」<家婦(かふ)の、京に在(いま)す尊母(そんぼ)に贈るために、誂(あとら)へられて作る歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

(注)かふ【家婦】〘名〙: 家の妻。また、自分の妻。家の中の仕事をする女の意でいう。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注の注)ここでは、前年の秋に下向した家持の妻、坂上大嬢のこと。

(注)そんぼ【尊母】:他人の母を敬っていう語。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注の注)ここでは、大伴坂上郎女をいう。

(注)あつらふ【誂ふ】他動詞:①頼む。②(物を作るように)注文する。あつらえる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 妻の坂上大嬢が越中に下向していたので、大嬢に頼まれて作った歌であろう。妻から義理の母に、便りを書いてと頼まれると、力関係で最終は書くことになるが、一悶着ありそうだが、さすが家持の文才の為せる業なのであろう。これ以上の美辞麗句はないほどの内容になっている。これを詠んだ妻の大嬢はどう思ったのであろう。

 それよりも驚くのは、極めてプライベートな歌であるが、万葉集に収録されているという事実である。

こういった事情背景を云々するよりも、「歌」としてその見事さに引き込まれてしまうのである。

 脱線したが、歌をみてみよう。

 

◆霍公鳥 来喧五月尓 咲尓保布 花橘乃 香吉 於夜能御言 朝暮尓 不聞日麻祢久 安麻射可流 夷尓之居者 安之比奇乃 山乃多乎里尓 立雲乎 余曽能未見都追 嘆蘇良 夜須家奈久尓 念蘇良 苦伎毛能乎 奈呉乃海部之 潜取云 真珠乃 見我保之御面 多太向 将見時麻泥波 松栢乃 佐賀延伊麻佐祢 尊安我吉美 <御面謂之美於毛和>

                 (大伴家持 巻二十 四一六九)

 

≪書き下し≫ほととぎす 来鳴く五月(さつき)に 咲きにほふ 花橘(はなたちばな)の かぐはしき 親の御言(みこと) 朝夕(あさよひ)に 聞かぬ日まねく 天離(あまざか)る 鄙(ひな)にし居(を)れば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを 奈呉(なご)の海人(あま)の 潜(かづ)き取るといふ 白玉(しらたま)の 見が欲(ほ)し御面(みおもわ) 直向(ただむか)ひ 見む時までは 松柏(まつかへ)の 栄(さか)えいまさね 貴(たひとき)き我(あ)が君 <御面、みおもわといふ>

 

(訳)時鳥が来て鳴く五月に咲き薫(かお)る花橘のように、かぐわしい母上様のお言葉、そのお声を朝に夕に聞かぬ日が積もるばかりで、都遠く離れたこんな鄙の地に住んでいるので、累々と重なる山の尾根に立つ雲、その雲を遠くから見やるばかりで、嘆く心は休まる暇もなく、思う心は苦しくてなりません。奈呉の海人(あま)がもぐって採るという真珠のように、見たい見たいと思う御面(みおも)、そのお顔を目(ま)の当たりに見るその時までは、どうか常盤(ときわ)の松や柏(かしわ)のように、お変わりなく元気でいらして下さい。尊い我が母君様。<御面は「みおもわ」と訓みます>

(注)「ほととぎす 来鳴く五月に 咲きにほふ 花橘の」は序。「かぐはしき」を起こす。

(注)かぐはし【香ぐはし・馨し】形容詞:①香り高い。かんばしい。②美しい。心がひかれる。(学研)

(注)みこと【御言・命】名詞:お言葉。仰せ。詔(みことのり)。▽神や天皇の言葉の尊敬語。 ※「み」は接頭語。上代語。(学研)

(注)やまのたをり【山のたをり】分類連語:山の尾根のくぼんだ所。(学研)

(注)よそ【余所】名詞:離れた所。別の所。(学研)

(注)そら【空】名詞:①大空。空。天空。②空模様。天気。③途上。方向。場所。④気持ち。心地。▽多く打消の語を伴い、不安・空虚な心の状態を表す。(学研) ここでは④の意

(注)やすげなし【安げ無し】形容詞:安心できない。落ち着かない。不安だ。(学研)

(注)「奈呉の海人の 潜き取るといふ 白玉の」は序。「見が欲し」を起こす。

(注)まつかへの【松柏の】[枕]:松・カシワが常緑で樹齢久しいところから、「栄ゆ」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)あがきみ【吾が君】名詞:あなた。あなたさま。▽相手を親しんで、また敬愛の気持ちをこめて呼びかける語。(学研)

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「松栢乃」の「栢」は読みは「かへ」であるが、「柏(カシワ)」でなく「榧(カヤ)」であると次のように書かれている。

「『かへ』とは『本草和名』に『榧実(カヤノミ)』和名で『加倍乃美(カヤノミ)』と載っている。『榧(カヤ)』は山地に生える雌雄異株の常緑針葉高木で、葉はとがって固く、小さく細い。(中略)カヤの材は碁盤・将棋盤などの最高級品として珍重されている。」と書かれている。

 

 「weblio辞書 デジタル大辞泉」の解説には、「まつかへの【松柏の】[枕]:松・カシワが常緑で樹齢久しいところから、『栄ゆ』にかかる。」とあるが、カシワが「柏」であるとすると、柏は、落葉高木であることから、常緑ではない。「栄ゆ」となると常緑がふさわしいと思われるので、樹形等々から考えても「榧(カヤ)」に軍配が上がりそうである。

 いずれにせよ、「変わらず栄える」木々である。

 

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東源寺(千葉県我孫子市)の榧の木(千葉県HPより引用させていただきました、)

 

 短歌の方もみてみよう。

 

◆白玉之 見我保之君乎 不見久尓 夷尓之乎礼婆 伊家流等毛奈之

                   (大伴家持 巻十九 四一七〇)

 

≪書き下し≫白玉の見が欲し君を見ず久(ひさ)に鄙(ひな)にし居(を)れば生けるともなし

 

(訳)真珠の様にいつも見たくてならない懐かしい母君様なのに、お逢いすることもなく長いことこんな鄙の地におりますと、生きた心地もいたしません。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)いけ【生】るともなし:(「いけ」は四段動詞「いく(生)」の命令形、「と」は、しっかりした気持の意の名詞) 生きているというしっかりした気持がない。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

天平勝宝元年(749年)六月から同二年二月中旬の間のある時期に家持の妻の坂上大嬢が越中に来たのではないかと言われている。

 このころの家持は、翌年には都に戻れるという気持ちと妻が越中にやってきたことで相乗効果となって心の充実感がハイレベルになっており、越中生活の「苦労や苦悩というものとは全く別の世界の美のピークを作り出した」(犬養孝 著「万葉の人びと(新潮文庫)」のである。

 天平勝宝二年(750年)三月一日から三日の間に、四一三九から四一五三歌、十五首も作っているのである。

 心満たされた境地がなせるわざなのであろう。

 この十五首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その819)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 妻に頼まれ作った四一六九歌で、「天離(あまざか)る 鄙(ひな)にし居(を)れば」と、詠ってはいるが、四一一三歌の「・・・慰むる 心しなくは 天離る 鄙に一日も あるべくもあれや(そのように思って心の安まることでもなければ、都離れたこんな鄙の国で、一日たりとも暮らしていられようか。とても暮らしていられるものではない。:伊藤氏訳)の「天離る 鄙」にこめる思いと比べれば、そこには、心のゆとりも感じられるのである。

 四一一三歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(810)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「千葉県HP」