●歌は、「香具山は畝傍を惜しと耳成と相争ひき神代よりかくにあるらし古もしかにあれこそうつせみも妻を争ふらしき」である。
●歌碑は、東山魁夷せとうち美術館前広場にある。
●歌をみていこう。
◆高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相格良思吉
(中大兄皇子 巻一 十三)
≪書き下し≫香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)を惜(を)しと 耳成(みみなし)と 相争(あいあらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしえ)も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき
(訳)香具山は、畝傍をば失うには惜しい山だと、耳成山と争った。神代からこんな風であるらしい。いにしえもそんなふうであったからこそ、今の世の人も妻を取りあって争うのであるらしい。(伊藤 博著「萬葉集 一」角川ソフィア文庫より)
(注)畝傍(うねび)を惜(を)しと:畝傍を失うのは惜しいと。香具山・耳成山が男山、畝傍が女山。(伊藤脚注)
(注)古も:現在にずっと続いてきている過去をいう。(伊藤脚注)
(注)しかにあれこそ うつせみも:そうであればこそ現世の人も・・・。今在る事を神代からの事として説明するのは神話の型。(伊藤脚注)
題詞は、「中大兄(なかのおほえ)<近江の宮に天の下知らしめす天皇>の三山の歌」である。
この十三歌と反歌(十四・十五歌)の歌群からなる。この題詞の脚注で、伊藤 博氏は、「以下三首、八歌(熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな<額田王>)と同じ旅の歌らしい。」と書かれている。
この歌ならびに反歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その64改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)
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瀬戸大橋記念公園の西駐車場(海に面した、東山魁夷せとうち美術館側)に車を停める。
万葉歌碑優先であるので、美術館は割愛する。
美術館入口前から建物に沿って西の方に歩く。緩やかな万葉の回廊と呼ばれるゾーンの小径を進む。小さな漁港が見えてくるあたりに万葉植物に因んだ歌碑(プレート)がいくつか並んでいる。
そこに、ポツンと石碑が建てられている。横に建てられている万葉歌碑の説明案内板によると、「東山魁夷 書」と書かれている。
歌碑の前は三叉路になっており、歌碑に向かって左方向に進めば「沙弥島」である。右方向に行けば、瀬戸大橋記念公園の西駐車場に戻ることが出来る。
今は埋め立てにより陸続きになった沙弥島であるが、埋め立て前がどのような姿であったが気になるところである。そこで埋め立て前の「沙弥島」を検索してみた。
坂出市HP「昔の写真(昭和・戦前)」に「沙弥島遠望(昭和15年)」が載っている。
「現在は,沙弥島のあたりまで埋め立てられ工業地帯や瀬戸大橋で賑やかになっていますが、埋め立てる前は静かな感じがします。陸地から沙弥島までは、水深が浅く、何度も船が座礁していたようです。
沙弥島右上の島は与島で、左側は本島です。 坂出市側の聖通寺山山頂から撮ったものです。」と説明が書かれている。
この写真を見れば、万葉の時代の「流刑地」のイメージが膨らんでくる。
また、「瀬戸内国際芸術祭2022」HPの「2018.08.24 【瀬戸内歴史探検隊】与島地区5島〜陸続きになった2つの島と瀬戸大橋で結ばれた3つの島〜」に次のような写真と説明文が掲載されている。
「沙弥島が陸続きになったのは、番の州(沙弥島と瀬居島の周辺に広がっていた浅瀬)を埋め立てて、臨海工業団地を造成しようとはじまった埋め立て事業でした。造成は1965年(昭和40 年)から1972年(昭和47年)にかけて行われました。沙弥島は1967年(昭和42年)12月に、瀬居島は1968年(昭和43年)9月にそれぞれ陸続きになりました。」と書かれている。
東山魁夷せとうち美術館前庭広場に、中大兄皇子が斉明天皇の征西の船で作ったという巻一 十三歌、考えれば、この征西の船に乗っていた人たち、中大兄皇子、大海人皇子、額田王、鸕野讃良皇女(持統天皇)、大田皇女、船上で生まれた大伯皇女・・・らは、日本の歴史の基盤を作り、万葉集にあっても特に悲劇性に満ちた物語のヒーロー、ヒロインで他ならないのである。
この歌碑から「沙弥島」に進むということは、万葉集の時間軸を踏みしめながら、柿本人麻呂という、ある意味歴史に圧殺された人のゆかりの地に足を踏み入れることになる。
身震いがする瞬間である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「坂出市HP」
★「瀬戸大橋記念公園HP」
★「瀬戸内国際芸術祭2022HP」