■なし■
●歌は、「露霜の寒き夕の秋風にもみちにけらし妻梨の木は」である。
●歌碑(プレート)は、千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園にある。
●歌をみていこう。
◆露霜乃 寒夕之 秋風丹 黄葉尓来之 妻梨之木者
(作者未詳 巻十 二一八九)
≪書き下し≫露霜(つゆしも)の寒き夕(ゆふへ)の秋風にもみちにけらし妻梨の木は
(訳)置く露のひとしお寒々とした夕(ゆうべ)、この夕方の秋風によって色づいたのであるらしい。妻なしという梨の木は。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)つゆしもの【露霜の】分類枕詞:①露や霜が消えやすいところから、「消(け)」「過ぐ」にかかる。②露や霜が置く意から、「置く」や、それと同音を含む語にかかる。③露や霜が秋の代表的な景物であるところから、「秋」にかかる。「つゆしもの秋」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)妻梨の木は:独り者の木ゆえ、一層寒さが身にしみて色づいたと見ている。(伊藤脚注)
(注の注)つまなし【妻梨】名詞:植物の梨(なし)の別名。「妻無し」に言いかけた語。(学研)
「梨」について、廣野 卓氏は、その著「食の万葉集」中公新書の中で、「万葉時代のナシは、現在も山に自生するヤマナシのことで、市販されているナシの四分の一程度の大きさでしかない。やや渋味があり、品種改良された二十世紀や長十郎などを食べなれたものには食べづらいが、それでも熟した実は、万葉びとの味覚を楽しませたのだろう。」と書いておられる。
万葉集には「なし」を詠んだ歌は三首収録されている。他の二首を見てみよう。
■二一八八歌■
◆黄葉之 丹穂日者繁 然鞆 妻梨木乎 手折可佐寒
(作者未詳 巻十 二一八八)
≪書き下し≫黄葉(もみぢば)のにほひは繁(しげ)ししかれども妻(つま)梨(なし)の木を手折(たを)りかざさむ
(訳)あの山のもみじの色づきはとりどりだ。しかし、妻なしの私は梨の木を手折って挿頭(かざし)にしよう。(同上)
(注)にほひ【匂ひ】名詞:①(美しい)色あい。色つや。②(輝くような)美しさ。つややかな美しさ。③魅力。気品。④(よい)香り。におい。⑤栄華。威光。⑥(句に漂う)気分。余情。(俳諧用語)(学研)ここでは①の意
(注)かざし【挿頭】名詞:花やその枝、のちには造花を、頭髪や冠などに挿すこと。また、その挿したもの。髪飾り。(学研)
(注)つまなし【妻梨】名詞:植物の梨(なし)の別名。「妻無し」に言いかけた語。(学研)
もう一首は、題詞「作者未詳の歌一首」の「成棗 寸三二粟嗣 延田葛乃 後毛将相跡 葵花咲(巻十六 三八三四歌)」である。
梨の歌三首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1138)」で紹介している。
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「梨」といえば「二十世紀」が主流であったが、最近では大型のものが出回っている。「二十世紀」について調べてみると、鳥取県商工労働部兼 農林水産部市場開拓局HPに「二十世紀梨は松戸覚之助(千葉県松戸市)に発見され、『新世紀の王者になるだろう』という願いを込めて名づけられました。
その後、明治37(1904)年に北脇永治によって10本の苗木が鳥取県に導入されます。持ち帰った苗木をもとに鳥取県内の各地に広がり、全国に名をはせる二十世紀梨の産地に成長していきました。
北脇永治が鳥取へ持ち帰った苗木、つまり現在栽培されている二十世紀梨の祖先に当たる親木は、平成11(1999)年に開園した『とっとり出合いの森』(鳥取市桂見)でいまも元気に実をつけています。
鳥取県東伯郡湯梨浜町には、北脇永治から穂木を譲り受けて接木した『百年樹』が健在です。」と書かれている。
さらに、同HPに梨の品種とその旬について、「『二十世紀(ハウス)』:8月上旬~8月中旬、『二十世紀(露地)』:8月下旬から9月中旬、『夏さやか』:8月上旬~8月中旬、『秋栄(あきばえ)』:8月中旬~下旬、『なつひめ』:8月中旬~9月上旬、『新甘泉(しんかんせん)』:8月下旬~9月上旬、『王秋(おうしゅう)』:10月下旬~11月下旬」とある。
また「木の実神社」や「鳥取二十世紀梨記念館『なしっこ館』」がある旨書かれている。
歌碑巡りのついでに立ち寄ってみたいものである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」」
★「鳥取県商工労働部兼 農林水産部市場開拓局HP」
★「六甲山系植生電子図鑑」 (国土交通省近畿地方整備局HP)