●歌は、「あしひきの山さな葛もみつまで妹に逢はずや我が恋ひ居らむ」である。
●歌をみていこう。
◆足引乃 山佐奈葛 黄變及 妹尓不相哉 吾戀将居
(作者未詳 巻十 二二九六)
≪書き下し≫あしひきの山さな葛(かづら)もみつまで妹(いも)に逢はずや我(あ)が恋ひ居(を)らむ
(訳)この山のさな葛(かずら)の葉が色付くようになるまで、いとしいあの子に逢えないままに、私はずっと恋い焦がれていなければならないのであろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)山さな葛:びなん葛か。(伊藤脚注)
(注の注)「さなかずら」の皮を剥いでぬるま湯に浸し、出て来る粘液を男性用の整髪料として使ったことから「美男葛(びなんかずら)」とも呼ばれていたようである。
二二九五から二二九七歌の標題は、「寄黄葉」<黄葉(もみち)に寄す>である。部立「秋相聞」に収録されている。
(注)もみぢ【紅葉・黄葉】名詞:①秋に草木の葉が赤や黄に色づくこと。また、その葉。紅葉(こうよう)。[季語] 秋。②襲(かさね)の色目の一つ。表は紅、裏は青。一説に、表は赤色、裏は濃い赤色。秋に用いる。紅葉襲(もみじがさね)。 ⇒参考:(1)紅葉は秋を代表する景物の一つで、平安時代、戸外での紅葉狩りや宮廷内での紅葉の賀などの行事が盛んに行われた。また、「紅葉」といえば鹿(しか)との取り合わせが有名であるが、『万葉集』を始め、それ以後の和歌集でも、鹿はカエデではなく萩(はぎ)の花と取り合わされることが多い。本来、萩の下葉の紅葉を踏み分けて妻恋する鹿の鳴くさまが秋の情趣を代表するものであったと思われる。(2)『万葉集』では「黄葉」と表記するのがふつうで、これは中国の詩文の影響もあるだろうが、大和地方に多い雑木の黄葉に即した用字であろう。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意
この歌ならびに「さな葛」を詠んだ歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その731)」で紹介している。
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他の二首もみてみよう。
◆我屋戸之 田葛葉日殊 色付奴 不来座君者 何情曽毛
(作者未詳 巻十 二二九五)
≪書き下し≫我(わ)がやどの葛葉(くずは)日に異(け)に色(いろ)づきぬ来(き)まさぬ君は何心(なにごころ)ぞも
(訳)我が家の庭先の葛の葉は日ましに色づいてきた。なのに、こんなになるまでおいでならないあなたは、いったいどんなお気持ちなのですか。(同上)
(注)上三句は、相手が訪れなくなって長い時間が経ったことを表す。(伊藤脚注)
(注)ひにけに【日に異に】分類連語:日増しに。日が変わるたびに。(学研)
(注)ぞも 分類連語:〔疑問表現を伴って〕…であるのかな。▽詠嘆を込めて疑問の気持ちを強調する意を表す。 ※上代は「そも」とも。 ⇒なりたち 係助詞「ぞ」+終助詞「も」(学研)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1153)」で紹介している。
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◆黄葉之 過不勝兒乎 人妻跡 見乍哉将有 戀敷物乎
(作者未詳 巻十 二二九七)
≪書き下し≫黄葉(もみちば)の過ぎかてぬ子を人妻と見つつやあらむ恋(こひ)しきものを
(訳)もみじの葉が散り過ぎるように、よそ目に見過ごしてしまうことなどできないあの子なのに、人妻として見てばかりいなければならないのか。こんなに恋しくてならないのに。(同上)
(注)もみぢばの【紅葉の・黄葉の】分類枕詞:木の葉が色づいてやがて散るところから「移る」「過ぐ」にかかる。 ※上代では「もみちばの」。(学研)
(注)かてぬ 分類連語:…できない。…しにくい。 ⇒なりたち:補助動詞「かつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の連体形(学研)
標題「黄葉(もみち)を詠む」は、巻十の部立「冬雑歌」にもあるのでみてみよう。
◆八田乃野之 淺茅色付 有乳山 峯之沫雪 寒零良之
(作者未詳 巻十 二三三一)
≪書き出し≫八田(やた)の野(の)の浅茅(あさぢ)色(いろ)づく有乳山(あらちやま)嶺(みね)の沫雪(あわゆき)寒く降るらし
(訳)八田の野の浅茅も色づいてきた。この分では、北の方(かた)有乳の山の峰には、泡雪が寒々と降っているらしい。(同上)
(注)八田の野:奈良県大和郡山市矢田付近の野か。(伊藤脚注)
(注)有乳山(あらちやま):福井県敦賀市。近江から越前へ越える要路の山。(伊藤脚注)
ここの「黄葉を詠む」について、伊藤博氏は、標題の脚注において、「黄葉は露がもたらすとされた。本来は秋の歌。「雪」を詠むので冬の歌と見たもの。」と書かれている。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1387)」で紹介している。
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部立「秋雑歌」の標題「詠黄葉」の先頭歌、柿本人麻呂歌集の二一七八・二一七九歌もみてみよう。
標題は、「詠黄葉」<黄葉(もみち)を詠む>である。
(注)黄葉(もみち):ここでは、山野の草木の色づきの意。(伊藤脚注)
◆妻隠 矢野神山 露霜尓 々寶比始 散巻惜
(柿本人麻呂歌集 巻十 二一七八)
≪書き下し≫妻ごもる矢野(やの)の神山(かみやま)露霜(つゆしも)ににほひそめたり散らまく惜(を)しも
(訳)妻と隠(こも)る屋(や)というではないか、矢野の神山は、冷え冷えとした露が降りて美しく色づきはじめた。このもみじの散るのが、今から惜しまれてならぬ。(同上)
(注)つまごもる【夫籠もる・妻籠もる】( 枕詞 ):①物忌みなどのため「つま」のこもる屋の意で、「屋上(やかみ)の山」「矢野の神山」にかかる。②地名「小佐保(おさほ)」にかかる。かかり方未詳。 (weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)
(注)にほふ【匂ふ】自動詞:美しく染まる。(草木などの色に)染まる。(学研)
◆朝露尓 染始 秋山尓 鍾礼莫零 在渡金
(柿本人麻呂歌集 巻十 二一七九)
≪書き下し≫朝露(あさつゆ)ににほひそめたる秋山にしぐれな降りそありわたるがね
(訳)朝露に濡れて色付きはじめた秋の山に、時雨よ降らないでおくれ。この見事な風情がいついつまでも続くように。(同上)
(注)ありわたる【在り渡る】自動詞:ずっとそのままの状態で時を過ごす。(学研)
(注)がね 接続助詞:《接続》動詞の連体形に付く。①〔理由〕…であるから。…だろうから。②〔目的〕…ために。…ように。 ※参考「がね」は文末に置かれるので、「終助詞」という説もあるが、倒置と考えられるので、接続助詞とする説に従う。上代語。(学研)
左注は、「右二首柿本朝臣人麻呂之歌集出」<右の二首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ>である。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その684)」で紹介している。
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以上、見てきた歌をまとめてみると次のようになる。
≪秋相聞 「黄葉に寄す」≫
■我がやどの葛葉日に異に色づきぬ来まさぬ君は何心ぞも(二二九五)
■あしひきの山さな葛もみつまで妹に逢はずや我が恋ひ居らむ(二二九六歌)
■黄葉の過ぎかてぬ子を人妻と見つつやあらむ恋しきものを(二二九七歌)
≪冬雑歌 「黄葉を詠む」≫
■八田の野の浅茅色づく有乳山嶺の沫雪寒く降るらし(二三三一歌)
≪秋雑歌 「黄葉を詠む」≫
■妻ごもる矢野の神山露霜ににほひそめたり散らまく惜しも(二一七八歌)
■朝露ににほひそめたる秋山にしぐれな降りそありわたるがね(二一七九歌)
「日に異に色づきぬ」、「もみつまで」、「黄葉の過ぎかてぬ」、「色づく」、「にほひそめたり」、「にほひそめたる」と時間経過の句が詠み込まれ、時間的・空間的幅が広がりさらに奥行きのある歌になっているのである。
自然の時の移りゆく様をみとった万葉びとの鋭い感覚がベースとなっているのであろう。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「三滝自然公園 万葉の道」 (せいよ城川観光協会