万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2453)―

●歌は、「男神に雲立ち上りしぐれ降り濡れ通るとも我れ帰らめや」である。

茨城県つくば市大久保 つくばテクノパーク大穂万葉歌碑(高橋虫麻呂) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県つくば市大久保 つくばテクノパーク大穂にある。

 

●歌をみていこう。

 

一七五九・一七六〇歌の題詞は、「登筑波嶺為嬥歌會日作歌一首 幷短歌」<筑波嶺(つくはね)に登りて嬥歌会(かがひ)為(す)る日に作る歌一首 幷(あは)せえ短歌>である。

(注)嬥歌>歌垣【うたがき】:古代の風習で,春秋に多数の男女が飲食を携えて山の高みや市などに集い,歌舞を行ったり,求愛して性を解放したりする行事。東国の方言で【かがい】といった。万葉集常陸(ひたち)国風土記に見え,常陸筑波山や大和の海柘榴市(つばいち)で行われたものが名高い。貴族の間で行われるようになると野趣を失い,踏歌(とうか)がこれに代わった。(コトバンク 株式会社平凡社百科事典マイペディア)

 

◆鷲住 筑波乃山之 裳羽服津乃 其津乃上尓 率而 未通女壮士之 徃集 加賀布嬥歌尓 他妻尓 吾毛交牟 吾妻尓 他毛言問 此山乎 牛掃神之 従来 不禁行事叙 今日耳者 目串毛勿見 事毛咎莫 <嬥歌者東俗語曰賀我比]>

           (高橋虫麻呂 巻九 一七五九)

 

≪書き下し≫鷲(わし)の棲(す)む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上(うへ)に 率(あども)ひて 娘子(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集(つど)ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻(ひとづま)に 我(わ)も交(まじ)はらむ 我(わ)が妻に 人も言(こと)とへ この山を うしはく神の 昔より 禁(いさ)めぬわざぞ 今日(けふ)のみは めぐしもな見そ 事もとがむな <嬥歌は、東の俗語(くにひとのことば)には「かがひ」といふ>

 

(訳)鷲の巣くう筑波に山中(やまなか)の裳羽服津(もはきつ)、その津のあたりに、声掛け合って誘い合わせた若い男女が集まって来て唱(うた)って踊るこのかがいの晩には、人妻におれも交わろう。おれの女房に人も言い寄るがよい。この山を支配する神様が、遠い昔からお許し下さっている行事なのだ。今日一日だけは、あわれだなと思って見て下さるな。何をしてもとがめ立てして下さるな。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)鷲(わし)の棲(す)む:恐しい深山を表すための形容。(伊藤脚注)

(注)裳羽服津:どこか不明。常陸風土記には東峰女山の側の泉に集まったと記す。(伊藤脚注)

(注)あどもふ【率ふ】他動詞:ひきつれる。 ※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)かがふ【嬥歌ふ】自動詞:男女が集まって飲食し、踊り歌う。(学研)

(注)うしはく【領く】他動詞:支配する。領有する。 ※上代語。(学研)

(注)めぐし【愛し・愍し】形容詞:①いたわしい。かわいそうだ。②切ないほどかわいい。いとおしい。 ※上代語。(学研)

 

次に一七六〇歌(反歌)をみてみよう。

 

男神尓 雲立登 斯具礼零 沾通友 吾将反哉

        (高橋虫麻呂 巻九 一七六〇)

 

≪書き下し≫男神(ひこかみ)に雲立ち上(のぼ)りしぐれ降り濡(ぬ)れ通るとも我(わ)れ帰らめや

 

(訳)男神の嶺(みね)に雲が湧き上がってしぐれが降り、びしょ濡(ぬ)れになろうとも、楽しみ半ばで帰ったりするものか。(同上)

 

左注は、「右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中出」<右の件(くだ)りの歌は、高橋連虫麻呂が歌集の中に出づ>である。

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1172)」で紹介している。

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 歌の内容に思わずドキッとしてしまうが、中西 進氏は、その著「古代史で楽しむ万葉集」(角川ソフィア文庫)のなかで、「・・・ここに伝わる嬥歌会(かがひ)を歌って、その交合を述べ、『人妻に 吾も交(まじ)らむ わが妻に 他(ひと)も言問(ことと)へ』(巻九、一七五九)といい、反歌に『時雨(しぐれ)にずぶ濡(ぬ)れになっても、わたしは帰らない』と歌っている。これを事実と解すると卑俗な歌になってしまうが、卑官虫麻呂が妻をともなって任国に赴任しているはずはない。これはひとつの習俗の伝承を詠んだにすぎないのである。」と書かれている。

 

歌垣について調べてみよう。

歌垣 分類文芸:古代、春か秋かに特定の地に男女が集まり、歌を詠み交わしたり踊ったりした交歓の行事。若い男女の求愛・求婚の機会ともなった。もとは豊作を祈願する宗教的行事の一面もあったが、のちには、風流な遊びとして宮廷行事にも取り入れられた。「うたがき」は筑紫(つくし)(=九州の古名)地方の言葉で、東国では「かがい(嬥歌)」といわれ、筑波(つくば)山のものが名高い。(学研)

 

嬥歌(かがひ)についてしらべてみよう。万葉神事語辞典(國學院大學デジタルミュージアム)に次のように詳しく書かれている;

「カガヒは歌垣(うたがき)の東国方言。カガフの名詞形。男女が集い歌舞する自由恋愛の行事。『嬥歌』と表記したのは、中国少数民族の歌舞と類似したことによる。常陸国風土記の香島郡に見える童子女の松原伝承に『嬥歌会』とあり、その注として『俗云宇多我岐、又云加我ヒ[田+比]也』と見え、土地の者はウタガキともカガヒともいうとある。また高橋虫麻呂筑波山の嬥歌の会を詠んだ歌に『嬥歌は東俗の語に賀我比という』(9-1759)と見える。筑波山の歌垣は常陸国風土記によると、筑波山は男女二神の山で、男の山は急峻で登らず、女神の山の泉の流れる辺に、諸国の男女が春と秋の季節に飲食物を持参して登り遊楽するのだという。この時に歌われた歌はあまりにも多くて記録できないといい、土地の諺に『筑波峰の会に、娉(つまどい)の財(たから)を得ることがないと、児女としない』というのだとある。この記録から筑波山のカガイは、①神の山で行われること、②泉の湧く水辺であること、③春秋二季に行われること、④範囲は箱根より東の諸国であること、⑤飲食物を持参していること、⑥男女の遊楽であること、⑦歌が多く歌われたこと、⑧贈り物を得ないと児女とされないこと、という情報が得られる。また、前掲虫麻呂の歌には人妻への恋が見られ、これは山の神が禁止しない行事なのだと詠んでいる。歌垣は古代の日本列島に広く存在したものと思われ、風土記万葉集に山や水辺あるいは市で行われた歌垣の記録を見る。持統天皇の時代に中国から踏歌が伝わり宮廷の行事として行われるが、『続日本紀』734(天平6)年2月には歌垣と呼ばれて、貴族の男女が列をなし歌ったとあり、同じく770(宝亀元)年3月にも歌垣とあり、男女が並んで歌舞したという。民間の歌垣の行事は『一年の中に適当な日を定めて、市場や高台など一定の場所に集まり、飲食・歌舞に興じ、性的解放を行った』(『時代別国語大辞典』)とある。歌垣で性的解放を行ったとするのは、虫麻呂の歌や民間習俗から得たものと思われるが、誤解を生みやすい。また、歌垣が農耕の予祝と関係することも一般に説かれているが、これも民間習俗から得たものと思われ、歌垣の発生史を説明するものではない。このカガイに嬥歌の漢字を当てたのは、カガイの意味を明確にする。契沖の『代匠記』に嬥歌が『文選』の魏都賦に見え、巴人の習俗であることを指摘する。『文選』の注で巴人は中国西南の民族であるといい、『井上新考』では清の趙翼の『簷曝雑記』に苗の風俗に墟という行事があり、男と女が恋歌を掛け合い意気投合すれば、今後の約束をするのだという。また、妻に他の男がからかうと夫は喜び、からかわれない妻は家に帰ると夫から謗られるのだともいう。こうした中国少数民族の習俗との類似から嬥歌の漢字が当てられたといえる。ここから見ると、カガイの習俗は日本列島に止まらず、東アジアの文化として存在することが知られる。土橋寛「歌垣の意義とその歴史」『古代歌謡と儀礼の研究』(岩波書店)。渡邊昭五『歌垣の民俗学的研究』(白帝社)。辰巳正明『詩の起原』(笠間書院)。」

 

 「歌垣」は、海石榴市が有名であるが、これに関連した歌をみてみよう。

◆紫者 灰指物曽 海石榴市之 八十衢尓 相兒哉誰

       (作者未詳 巻十二 三一〇一)

 

≪書き下し≫紫(むらさき)は灰(はい)さすものぞ海石榴市(つばきちの)の八十(やそ)の衢(ちまた)に逢(あ)へる子や誰(た)れ

 

(訳)紫染めには椿の灰を加えるもの。その海石榴市の八十の衢(ちまた)で出逢った子、あなたはいったいどこの誰ですか。(伊藤 博著「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)

(注)上二句「紫者 灰指物曽」は懸詞の序で、「海石榴市」を起こす。 ※紫染には、媒染材として椿の灰をつかった。(伊藤脚注)

(注)はひさす【灰差す】分類連語:紫色を染めるのに椿(つばき)の灰を加える。(学研)

(注)海石榴市:桜井市金屋。著名な歌垣の地。

(注)衢(ちまた):分かれ道や交差点のことで、道がいくつにも分かれている所は「八衢(やちまた)」と呼ばれていた。海石榴市は四方八方からの主要な街道が交差している場所なので、「八十(やそ)の衢(ちまた)」と表現された。(「万葉のうた 第3回 海石榴市(つばいち)」 奈良県HP) 

 

 部立「問答歌」とあり、この歌と次の歌がセットになっている。

 

◆足千根乃 母之召名乎 雖白 路行人乎 孰跡知而可

         (作者未詳 巻十二 三一〇二)

 

≪書き下し≫たらちねの母が呼ぶ名を申(まを)さめど道行く人を誰と知りてか

 

(訳)母さんの呼ぶたいせつな私の名を申してよいのだけれど、道の行きずりに出逢ったお方を、どこのどなたと知って申し上げたらよいのでしょうか。(伊藤 博著「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)

(注)母が呼ぶな名:母が呼ぶ本名。(伊藤脚注)

(注)む 助動詞:《接続》活用語の未然形に付く。〔意志〕…(し)よう。…(する)つもりだ。(学研)

 

三 一〇一歌は、歌垣で求婚を申し出ている。当時は名前を尋ねることは求婚を意味し、女性が名前を教えることは結婚を承諾するということである。三一〇二歌で、教えたいけど教えられない、と申し込みをやんわりことわっている。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1184)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉神事語辞典」 (國學院大學デジタルミュージアム

★「コトバンク 株式会社平凡社百科事典マイペディア」

★「奈良県HP」