万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2468)―

●歌は、「橘の下吹く風のかぐわしき筑波の山を恋ひずあらめかも」である。

茨城県つくば市筑波 筑波山神社万葉歌碑(占部広方) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県つくば市筑波 筑波山神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆多知波奈乃 之多布久可是乃 可具波志伎 都久波能夜麻乎 古比須安良米可毛

       (占部広方 巻二十 四三七一)

 

≪書き下し≫橘の下吹く風のかぐはしき筑波の山を恋ひずあらめかも

 

(訳)橘の木陰を吹き抜ける風がかぐわしく薫る筑波の山よ、ああ、あの山にどうして恋い焦がれずにいられようか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫

(注)かぐはしき:かぐわしくかおる。(伊藤脚注)

(注)めかも:メカモは反語。(伊藤脚注)

(注の注)めかも :(推量の助動詞「む」の已然形「め」に、反語の意を表わす係助詞「か」、詠嘆を表わす係助詞「も」の付いたもの。東歌に見られる語法) =めやも (コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

左注は、「右一首助丁占部廣方」<右の一首は助丁占部広方(じよちやううらべのひろかた)>である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2465)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 


 

この歌は、「相替りて筑紫に遣わさゆる防人等が歌」の一首である。防人ならびにこの歌について、筑波銀行HP「筑波経済月報2015年2月号」に筑波大学人文社会系教授 文学博士 伊藤 益氏の「筑波山萬葉集」に次のように詳しく、分かりやすく紹介されているので抜粋引用させていただきます。

 

「防人とは、東国の二十歳から六十歳までの男子のなかから選ばれ、唐、新羅の来襲に備えて筑紫、壱岐対馬など九州西北部を守った兵士たちのことをいいます。『防人』・・・が、実際に設置されたのは、天智三(六六四)年、白村江(はくすきのえ)の戦いの翌年のことでした。白村江の戦いとは、百済の救援に向かった大和朝廷軍と唐・新羅連合軍とのあいだに勃発した戦いで、大和朝廷側の大敗に終わりました。この敗戦をうけて、大和朝廷は九州西北部の防衛を強化しなければならなくなったのです。

防人の定員は三千人で、毎年千人ずつ三月に交替することになっていました。・・・歌の作者占部広方は、天平勝宝七(七五五)年二月半ばに陸路を通って難波に到着、同月末ごろに海路九州に向かったものと推定されます。」

「防人の任務は過酷でした。東国から九州まで派遣され、そこで敵襲に備えつつ自給自足の生活を強いられたからです。防人に指名された男子は、まず郷村を旅立って国府へと向かいます。国府に集結後、防人部領使(さきもりのことりづかい)に率いられて、難波へと陸路を歩むのです。武具、武器、食料等はすべて持参。難波への途上では、野宿を余儀なくされました。常陸の国の防人の場合は、まず国府石岡に集結して、三十日をかけて難波に向かいます。・・・歌の作者占部広方は、その歌が二月十四日に兵部少輔大伴家持(おおとものやかもち)に献上されていることから、無事に難波に到着したと考えられます。」

「歌は、おそらく、難波に向かう途上で、たとえば、 常陸の国の防人たちが野宿の際に催したささやか な酒宴などで詠まれたものでしょう。故郷常陸を 代表する山『筑波山』への思慕の思いを表出することによって、故郷との別れを悲しむ情を抒(の)べたものです。・・・占部広方は、常陸野に勇壮としてそそり立つ筑波山を眺めながら、幼時を、そして青春を過ごしてきたのでありましょう。萬葉集の左注によれば、広方は『助丁(じょちょう)』という役職者として防人の任に就いております。・・・このことから見て、広方はすでに青年期を終えた年齢、三十歳代半ばくらいではなかったかと推定されます。三十歳代半ばといえば、妻や子もいたことでしょう。老父母が健在だったとしても不思議ではありません。難波に向かう旅の途次、望郷の念を表出するにあたって、そうした縁者たちへの思いを抒べることなく、あえて筑波山を詠(よ)んだことには何か理由がありそうです。おそらく、広方にとって、幼少のころから青年期を経て、 日々眺め続けてきた筑波山は、格別な意味をもっていたのでしょう。筑波山は、広方の三十数年間の人生をずっと見守ってきたのです。筑波山は、広方の人生そのものだったといっても過言ではないでしょう。」

 「・・・筑波山は、萬葉の時代から常陸の国の象徴でした。筑波山と言えば常陸国常陸国と言えば筑波山だったと言ってしまってもよいでしょう。その象徴に向かい合った萬葉の時代の常陸人(ひたちびと)は、ただ単に武骨で素朴な人々ではなかったことを、広方の歌から窺い知ることができるのではないでしょうか。彼ら・彼女らは、たをやかでしなやかな感性を備え、都人に劣らず、優美な歌を奏でることのできた人々だったのです。」

 

 「橘の下吹く風のかぐはしき筑波の山を恋ひずあらめやも」と、「めかも」を「めやも」と置き換えたら、防人の歌、東国の歌とは思えない雰囲気である。

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「筑波山萬葉集」 筑波大学人文社会系教授 文学博士 伊藤 益 稿 (筑波銀行HP「筑波経済月報2015年2月号」)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典