万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2645)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―

●歌は、「埴安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ(柿本人麻呂 2-201)」である。

 

【埴安の池】

 「柿本人麻呂(巻二‐二〇一)(歌は省略)・・・香具山の中腹から・・・三山の間の藤原京は一望のうちとなる。・・・埴安の池は当時、南浦のあたりから、山の西をめぐって、哭沢(なきさわ)の森との間の田んぼのところにもたたえ、さらに山の北の方におよんでいた。西浦・上の岸・北浦などの小字をたどればだいたいの見当がつく。舒明天皇の国見の歌に『海原はかまめ立ち立つ』とうたわれた池のおもかげはいまはまったくない。この北西部の裾あたりに高市皇子の香具山の宮があったらしい。高市皇子は・・・壬申の乱に近江進攻の総指揮をとった人、持統朝には太政大臣になっていたが、持統一〇年(六九六)の七月になくなった。皇子の殯(あらき)宮の儀式のときに人麻呂は、『万葉集』の中でいちばん長い長歌をよんで悼(いた)んだが、この歌はその反歌の一つである。堤の内側にしーんと淀(よど)みに淀んだ池水は、見つめれば見つめるほど、あてのない憂愁をさそいだし、自分も含めて舎人(とねり)らみんなの途方にくれた気持そのままに思われたのだ。連綿と『の』の音をつみ重ねゆく律動は一段一段と思いを深めていく。」(「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)

万葉の旅(上)改訂新版 大和 (平凡社ライブラリー) [ 犬養孝 ]

価格:1320円
(2024/9/1 13:49時点)
感想(0件)

 

 

 二〇一歌をみてみよう。

■巻二 二〇一歌■

◆埴安乃 池之堤之 隠沼乃 去方乎不知 舎人者迷惑

       (柿本人麻呂 巻二 二〇一)

 

≪書き下し≫埴安(はにやす)の池の堤(つつみ)の隠(こも)り沼(ぬ)のゆくへを知らに舎人(とねり)は惑(まと)ふ

 

(訳)埴安の池、堤に囲まれた流れ口もないその隠(こも)り沼(ぬ)のように、行く先の処そ方もわからぬまま、皇子の舎人たちはただ途方に暮れている。(同上)

(注)こもりぬ【隠り沼】名詞:茂った草などに覆われて隠れて、よく見えない沼。うっとうしいものとしていうこともある。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)上三句は嘱目の序。「ゆくへを知らに」にかかる。(伊藤脚注)

(注)ゆくへを知らに:どうしてよいかあてどもなくて。ニは打消のヌの連用形。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1787)」で、一九九から二〇一歌の歌群の題詞「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 幷短歌」<高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷(あは)せて短歌>ならびに二〇二歌「或書反歌一首」<或書の反歌一首>とともに紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

 三山とその中心に位置する「藤原宮跡」ならびに「畝尾都多本神社」(橿原市HP「かしはら探訪ナビ」によると、「畝尾都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)は、『哭澤の神社』(なきさわのもり)とも言います」とある。)は、下記の地図を参考にしてください。

 

「橿原の万葉歌碑めぐり」(橿原市観光政策課・橿原市観光協会)より引用させていただきました。



 

 

 

 「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)に記述されていた「舒明天皇の国見の歌」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1784)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「かしはら探訪ナビ」 (橿原市HP)

★「橿原の万葉歌碑めぐり」 (橿原市観光政策課・橿原市観光協会