●歌は、「埴安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ(柿本人麻呂 2-201)」である。
【埴安の池】
「柿本人麻呂(巻二‐二〇一)(歌は省略)・・・香具山の中腹から・・・三山の間の藤原京は一望のうちとなる。・・・埴安の池は当時、南浦のあたりから、山の西をめぐって、哭沢(なきさわ)の森との間の田んぼのところにもたたえ、さらに山の北の方におよんでいた。西浦・上の岸・北浦などの小字をたどればだいたいの見当がつく。舒明天皇の国見の歌に『海原はかまめ立ち立つ』とうたわれた池のおもかげはいまはまったくない。この北西部の裾あたりに高市皇子の香具山の宮があったらしい。高市皇子は・・・壬申の乱に近江進攻の総指揮をとった人、持統朝には太政大臣になっていたが、持統一〇年(六九六)の七月になくなった。皇子の殯(あらき)宮の儀式のときに人麻呂は、『万葉集』の中でいちばん長い長歌をよんで悼(いた)んだが、この歌はその反歌の一つである。堤の内側にしーんと淀(よど)みに淀んだ池水は、見つめれば見つめるほど、あてのない憂愁をさそいだし、自分も含めて舎人(とねり)らみんなの途方にくれた気持そのままに思われたのだ。連綿と『の』の音をつみ重ねゆく律動は一段一段と思いを深めていく。」(「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)
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二〇一歌をみてみよう。
■巻二 二〇一歌■
◆埴安乃 池之堤之 隠沼乃 去方乎不知 舎人者迷惑
(柿本人麻呂 巻二 二〇一)
≪書き下し≫埴安(はにやす)の池の堤(つつみ)の隠(こも)り沼(ぬ)のゆくへを知らに舎人(とねり)は惑(まと)ふ
(訳)埴安の池、堤に囲まれた流れ口もないその隠(こも)り沼(ぬ)のように、行く先の処そ方もわからぬまま、皇子の舎人たちはただ途方に暮れている。(同上)
(注)こもりぬ【隠り沼】名詞:茂った草などに覆われて隠れて、よく見えない沼。うっとうしいものとしていうこともある。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)上三句は嘱目の序。「ゆくへを知らに」にかかる。(伊藤脚注)
(注)ゆくへを知らに:どうしてよいかあてどもなくて。ニは打消のヌの連用形。(伊藤脚注)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1787)」で、一九九から二〇一歌の歌群の題詞「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 幷短歌」<高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷(あは)せて短歌>ならびに二〇二歌「或書反歌一首」<或書の反歌一首>とともに紹介している。
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三山とその中心に位置する「藤原宮跡」ならびに「畝尾都多本神社」(橿原市HP「かしはら探訪ナビ」によると、「畝尾都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)は、『哭澤の神社』(なきさわのもり)とも言います」とある。)は、下記の地図を参考にしてください。
「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)に記述されていた「舒明天皇の国見の歌」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1784)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「かしはら探訪ナビ」 (橿原市HP)