●歌は、「百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(大津皇子 3-416)」である。
【磐余の池】
「大津皇子(巻三‐四一六)(歌は省略)・・・磐余の名はこんにちのこらないから地域ははっきりしがたいが、香具山の北東、旧安倍村(現、桜井市内)一帯の丘陵と平地をいうものであろう。磐余の名は記紀にたびたび見えるところで、香具山の東の丘道を越えた池之内(桜井市)にはこんもり茂った森の稚桜(わかざくら)神社に磐余稚桜宮(神功皇后・履中)址、磐余池辺双槻(なみつき)宮(用明)址も伝え、西方の池尻(橿原市)の御厨子神社には磐余甕栗(みかぐり)宮(清寧)址を伝えている。池之内から池尻にゆく間など、凹地の湿田で磐余の池のなごりを思わせている。磐余の池は履中紀にみえる人工池で」である。「朱鳥元年(六八六)一〇月三日、大津皇子が謀反ということで死刑に処せられるとき磐余の池の堤で涙を流してよんだというこの歌の哀韻は、いまの寂しい村の湿田の方がいっそう身にしみるものがある。『百伝ふ』は枕詞。二四歳の生を終る日の心の窓に、池の鴨は、そして大和の風物は、どんなに深くきざみこめられたであろうか。」(「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)
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四一六歌をみていこう。
■巻三 四一六歌■
題詞は、「大津皇子被死之時磐余池陂流涕御作歌一首」<大津皇子(おほつのみこ)、死を被(たまは)りし時に、磐余の池の堤(つつみ)にして涙を流して作らす歌一首>である。
(注)大津皇子:謀反のかどで朱鳥元年(六八六)十月三日に処刑された。年二四。(伊藤脚注)
◆百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見 雲隠去牟
(大津皇子 巻三 四一六)
≪書き下し≫百伝(ももづた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠りなむ
(訳)百(もも)に伝い行く五十(い)、ああその磐余の池に鳴く鴨、この鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去って行くのか。(伊藤 博 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)ももづたふ【百伝ふ】分類枕詞:①数を数えていって百に達するの意から「八十(やそ)」や、「五十(い)」と同音の「い」を含む地名「磐余(いはれ)」にかかる。②多くの地を伝って遠隔の地へ行くの意から遠隔地である「角鹿(つぬが)(=敦賀(つるが))」「度逢(わたらひ)」に、また、遠くへ行く駅馬が鈴をつけていたことから「鐸(ぬて)(=大鈴)」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意
(注)鳴く鴨を:鴨は生きており、皇子は死に赴く。(伊藤脚注)
(注)雲隠りなむ:「雲隠る」は貴人の死をいう。ここは皇子の魂が鳥に化して雲隠れる印象を喚起する。(伊藤脚注)
左注は、「右藤原宮朱鳥元年冬十月」≪右、藤原の宮の朱鳥(あかみとり)の元年の冬の十月>である。
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その118改)」で妙法寺(御厨子観音)参道入り口万葉歌碑とともに紹介している。
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「桜井市 記・紀 万葉歌碑(第六版)」 (一社 桜井市観光協会)の巻三‐四一六(万葉歌碑番号番外)には、次のような内容が記されている。
大津皇子の歌碑ならびに磐余の池跡の地図は次のとおりである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「桜井市 記・紀 万葉歌碑(第六版)」 (一社 桜井市観光協会)
★「グーグルマップ」