万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2775)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―

●歌は、「天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り告げ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は(山部赤人 3-317)」ならびに「田子の浦ゆうち出て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける(山部赤人 3-318)」である。

 

【田児の浦】

 「山部赤人(巻三‐三一七・三一八)(いずれも歌は省略)赤人の富士の歌は、富士の崇高・清浄・雄大な神性への讃嘆をうたいあげた絶唱としてあまりにもきこえているし、また後代の富士の文学への影響もたいへん大きいものがある。赤人がおそらくは官命をおびて東国の旅の途上の属目(しょくもく)であろうが、こうした歌がつくられるのも、赤人が万葉第三期平城京の宮廷歌人であり、都会の教養人であり、なによりも創作意識のすこぶる旺盛な歌よみであり、しかも、その赤人が、大和周辺では日ごろ見ることのできない秀麗・最高峯の富士山とのはじめての出会いによるといわねばならない。・・・この『田児の浦』の歌は、・・・長歌・短歌ひと組で、有機的な美の構造を意識的につくりあげているものであって、長歌で富士の悠久な神性を、実体をふまえながらもちょうどモンタージュのように日・月・白雲・雪を配して観念的な讃嘆をとげれば、反歌では逆に現実的な写実によって富士の美景を描きあげる。長歌が空間性を背後にして時間性をもって統一すれば、反歌では時間性は背後になって空間性を表面にうち出す趣である。しかもこの時間性から空間性への転換のかぎは長歌の表現の中に含まれている。長歌の中で、日と月と白雲とは『影も隠らひ』『光も見えず』『白雲もい行きはばかり』とすべて否定的な表現なのに、雪だけは『時じくぞ雪は降りける』と肯定されているところこそ、『田児の浦』の反歌一首を生むだいじな契機として見のがせない。こうして反歌で、『ま白にそ・・・雪は降りける』の白雪の富士の実景が描かれるのだ。しかも、上二句に出会いの地点と行動をはっきりさせることによって、見られる『富士の高嶺』の雪はいよいよ映発の度を加えて、ま白の秀峯として作者の感動といっしょに躍り出てくるのだ。」(「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)

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巻三 三一七歌・三一八歌をみていこう。

■■巻三 三一七歌・三一八歌■■

 三一七および三一八歌の題詞は、「山部宿祢赤人望不盡山歌一首并短歌」<山部宿禰赤人、富士(ふじ)の山を望(み)る歌一首幷(あは)せて短歌>である。

 

■巻三 三一七歌■

◆天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎 天原 振放見者 度日之陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利 時自久曽 雪者落家留 語告 言継将徃 不盡能高嶺者

        (山部赤人 巻三 三一七)

 

≪書き下し≫天地(あめつち)の 分(わか)れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴(たふと)き 駿河(するが)なる 富士(ふじ)の高嶺(たかね)を 天(あま)の原(はら) 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影(かげ)も隠(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲(しらくも)も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り告(つ)げ 言ひ継ぎ行かむ 富士(ふじ)の高嶺は

 

(訳)天と地の相分かれた神代の時から、神々しく高く貴い駿河の富士の高嶺を、大空はるかに振り仰いで見ると、空を渡る日も隠れ、照る月の光も見えず、白雲も行き滞り、時となくいつも雪は降り積もっている。ああ、まだ見たことのない人に語り聞かせ、のちのちまでも言い継いでゆこう。この神々しい富士の高嶺は。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)富士の高嶺を:富士の高嶺よ、その高嶺を、の意。(伊藤脚注)

(注)振り放け見れば:以上、聖なる山を空高く仰ぎ見ることをいう。(伊藤脚注)

(注)渡る日の:以下、日・月・雲・雪の四つの景を配して、見た内容を繰り広げる。時間空間を絶した尊厳なさま。(伊藤脚注)

(注)ときじ【時じ】形容詞:①時節外れだ。その時ではない。②時節にかかわりない。常にある。絶え間ない。 ※参考上代語。「じ」は形容詞を作る接尾語で、打消の意味を持つ。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)語り告げ:以下結びで、讃美。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻三 三一八歌■

◆田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留

                      (山辺赤人 巻三 三一八)

 

≪書き下し≫田子(たご)の浦ゆうち出(い)でて見れば真白(ましろ)にぞ富士の高嶺に雪は降りける

 

(訳)田子の浦をうち出て見ると、おお、なんと、真っ白に富士の高嶺に雪が降り積もっている。(同上)

(注)うち出でて:視界の開けた所に出て見ると。(伊藤脚注)

(注の注)うちいづ 【打ち出づ】自動詞:①出る。現れる。②出陣する。出発する。③でしゃばる。 ※「うち」は接頭語。(学研)ここでは①の意

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その416)」で滋賀県東近江市下麻生 山部神社の万葉歌碑とともに紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

滋賀県東近江市下麻生 山部神社万葉歌碑(山部赤人 3-318) 20200203撮影



 

 

 

 富士市HP「富士じかん」に「富士山と田子の浦港山部赤人万葉歌碑」の記事を下記に引用させていただきます。万葉歌碑については、機会をみて訪れてみたいものである。

富士じかん」(富士市HP)より引用させていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「富士じかん」 (富士市HP)