●歌は、「思ひあまりいたもすべなみ玉たすき畝傍の山に我れ標結ひつ」である。
●歌をみていこう。
◆思賸 痛文為便無 玉手次 雲飛山仁 吾印結
(作者未詳 巻七 一三三五)
≪書き下し≫思ひあまりいたもすべなみ玉たすき畝傍(うねび)の山に我(わ)れ標結(しめゆ)ひつ
(訳)思い余ったあげく、何とも致し方がなくて、私は、神聖な畝傍の山に占有の標縄(しめなわ)を張ってしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)おもひあまる【思ひ余る】:思案に余る。恋しさに堪え切れなくなる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)たまだすき【玉襷】:分類枕詞 たすきは掛けるものであることから「掛く」に、また、「頸(うな)ぐ(=首に掛ける)」ものであることから、「うなぐ」に似た音を含む地名「畝火(うねび)」にかかる。(学研)
(注)畝傍の山:女山の神山。人妻の譬えか。(伊藤脚注)
(注)標結う:我が物としたことの譬え。(伊藤脚注)
(注の注)標結う:占有を示す標識として、縄などをむすんで巡らす。また、草などをむすんで目印をつける。(コトバンク デジタル大辞泉)
畝火山口神社(うねびやまぐちじんじゃ)は、畝傍山(うねびやま)の西山麓にある。もともと畝傍山の西麓にあったが、一度、畝傍山の山頂に移されたものの、昭和十五年の橿原神宮の大拡張工事の際、橿原神宮や神武天皇陵を見下ろす位置にあることから、現在の位置に移されたという。
畝火山口神社に上る道は狭そうなので、下の方の広場に車を止める。そこから歩いていく。
しばらく上ると鳥居が見えて来る。このあたりから登りがすこしきつくなる。鳥居の手前に「畝火山口神社」の銘碑がある。さらに手前の右手の草蒸したところに歌碑はあった。
- 平城宮跡散策
遺構展示館駐車場脇から車で東院庭園に向かう。同庭園前の駐車場に車を止め庭園めぐりをする。二回目である。「東院庭園」は、孝謙天皇が重祚した称徳天皇の時代に宴会や儀式を催した庭園を復原したものである。隅楼や中央建物の柱をよくみてみると正八角形である。最初来た時に資料室で八角柱基礎の発掘模型を見たのだが、建物の柱までじっくり見ていなかったのである。
庭園の池をひとまわりして、駐車場に戻る。次は、車を遺構展示館の駐車場に止め、平城天皇陵から佐紀神社を歩いて巡ることに。
平城天皇(へいぜいてんのう)は、「[774~824]第51代天皇。在位806~809。桓武天皇の第1皇子。名は安殿(あて)。中央官制の縮小など政治の刷新に努めたが、病のため嵯峨天皇に譲位。のち、薬子(くすこ)の変で復位をはかったが失敗して出家。奈良の帝。」(コトバンク 小学館デジタル大辞泉より)とある。
陵は、平城宮跡の大極殿の北北東の位置にある。神功皇后陵、成務天皇陵、孝謙天皇陵、日葉酢媛命陵、宇和奈辺陵、小奈辺陵、磐之媛命陵と何度も行っているがなぜかこの陵だけは行ったことがなかった。歌姫街道に通じる佐紀町の交差点の一本東の道を北にまっすぐ進むと陵がある。入り口横は電気屋さんである。
陵の次は、佐紀神社である。大極殿の裏(北側)を見ながらしばらく歩くと、幼稚園が左手にあり、その反対側にこんもりした杜がある。そこが佐紀神社(亀畑)である。
驚くことに御前池を挟んで同名の佐紀神社(西畑)がある。
佐紀神社の裏手に接する形で池にそってもう一つ釣殿神社がある。釣殿神社も佐紀神社(西畑)も佐紀神社(亀畑)から分祀下らとのことである。
御前池は昔、釣堀であった。何度か釣りに来たことがあった。
釣殿神社や佐紀神社のことはこのころは関心がなかったのである。池の縁を歩くと鯉がたくさん口パクをやっている。エサを求めているのだろう。のんびりとした平城京周辺めぐりであった。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「橿原の万葉歌碑めぐり」(橿原市観光政策課)
★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
※20230414朝食関連記事削除、一部改訂