●歌は、「この雪の消殘る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む」
●歌碑は、京都府城陽市寺田 正道官衙遺跡公園 №27 にある。
●歌をみていこう。
◆此雪之 消遺時尓 去来歸奈 山橘之 實光毛将見
(大伴家持 巻十九 四二二六)
≪書き下し≫この雪の消殘(けのこ)る時にいざ行かな山橘(やまたちばな)の実(み)の照るも見む
(訳)この雪がまだ消えてしまわないうちに、さあ行こう。山橘の実が雪に照り輝いているさまを見よう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)やまたちばな【山橘】名詞:やぶこうじ(=木の名)の別名。冬、赤い実をつける。[季語] 冬。
題詞は、「雪日作歌一首」<雪の日に作る歌一首>である。
左注は、「右一首十二月大伴宿祢家持作之」<右の一首は、十二月に大伴宿禰家持作る>である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★★★大津市万葉歌碑めぐり★★★
昨日(10月9日)、万葉集第1期終わりの大津宮があったといわれる滋賀県大津市の万葉歌碑を巡ってきた。
(注)おつのみや〔おほつ‐〕【大津宮】:天智・弘文天皇2代の都。天智天皇6年(667)に遷都。弘文天皇1年(672)に壬申(じんしん)の乱で荒廃。大津市にあったといわれるが、正確な場所は不明。近江大津宮。滋賀宮。滋賀大津宮。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉より)
まず手始めは、大津市役所である。時計台の下に歌碑がある。それと観光関係の資料を入手するためである。トイレ休憩もかねて。
来庁者用駐車場に車を止め案内に従い歩いていく。市役所正面横の時計台まで、別館、新館、本館と渡り歩く。結構な距離である。
本館正面階段を降り、時計台を探す。正面向かって右手に背の高い時計台がある。天智天皇の水時計にちなんだデザインだそうである。その土台あたりに球体の歌碑が位置している。柿本人麻呂の「楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまた逢やめやも」(巻一 三一歌)である。
総合案内所で「大津市ガイドマップ」と「びわ湖光くんマップ(大津市観光地図)」をいただく。
次は、JR大津京駅に向かう。2008年に「西大津」から「大津京」に名前が変更された。大津京駅東側のロータリーのなかに、額田王と天武天皇の歌碑(巻一 二十、二十一歌)がある。
天智天皇が遊狩(みかり)した時の、額田王と大海人皇子(後の天武天皇)との間に交わされたとされる歌である。この歌を大津京駅前に配置してあることは、後々のことを含め考えさせられるロケーションである。
近江神宮の駐車場から参道を歩く、左手に歌碑が並んでいる。一番手前が、高市黒人の歌碑(巻一 三十三歌)である。
階段をのぼり、鮮やかな朱塗りの楼門をくぐる。
スマホで近江神宮歌碑を検索、柿本人麻呂の歌碑は、駐車場の手前、時計学校の敷地内にあることがわかったので、そちらに向かう。「近江の海夕浪千鳥汝が鳴けば情もしのに古思ほゆ」(巻三 二六六歌)である。
神宮の近くの大津京シンボル緑地が次の目的地である。万葉歌碑は3基(額田王・柿本人麻呂・藤原鎌足)であり、この他に天智天皇、平 忠度の歌碑が建てられていた。訪れる人も少ないのか、雑草が生い茂っている。歌碑の撮影のためのある程度きれいにしようと、草抜きからである。この時に盗人萩の実がズボンや靴下までびっしり着いたようである。
続いて向かった先は、びわ湖大津館である。同館HPによると、「びわ湖大津館は、1934年(昭和9年)、外国人観光客の誘致を目的に県内初の国際観光ホテルとして建築された建物(旧琵琶湖ホテル本館)をリニューアル活用した大津市の文化施設です。
旧琵琶湖ホテル時代には、『湖国の迎賓館』として昭和天皇を始め多くの皇族の方々、ヘレン・ケラー、ジョン・ウエイン、川端康成など多分野の著名人をお迎えし、名実ともに県下唯一の格式を持ったホテルとして営業されておりました。」とある。格式の高い建物である。
同館の裏に回るとそこはびわ湖。イングリッシュガーデンを左手に湖岸を歩くと、歌碑が見えて来た。近江神宮と同じ柿本人麻呂の歌碑である(巻三 二六六歌)。歌碑もロケーションによって趣が異なってくる。びわ湖を背景にした歌碑は時空をこえるトリガーみたいに感じる。
次は「県営都市公園湖岸緑地唐崎苑」である。途中のコンビニに寄って、昼食用のおにぎり、菓子パン、おやつ系を仕入れる。
駐車場は充実している。公園はエントランス部と広場で構成されている。そこそこの広さの広場の周辺道沿いに歌碑が点在している。
柿本朝臣人麻呂の「楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ」(巻一 三十歌)、舎人吉年の「やすみしし 我ご大君の大御船待ちか恋ふらむ志賀の唐崎」(巻二 一五一歌)、
但馬皇女の「後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈みに標結へ我が背」(巻二 一一五歌)の三つの歌碑が建てられていた。
広場には、小さな東屋があるので、そこで昼食をとった。
昼食後びわ湖沿いに北に向かう。四十分ほどで和邇南浜に到着。和邇浜水泳場である。歌碑は和邇川左岸河口付近にあるので、大津市役所でもらった地図で探す。水泳場から少し南に下ったところに和邇川がある。ほぼ湖岸沿いに細い道を車で移動。川べりに出る。左折、河口近くに空き地があり、左手には湖岸にさざ波が押し寄せるびわ湖畔が広がっている。空き地の川側に、和邇川河川災害復旧助成事業の碑がありその横に「楽浪の比良山風の海吹けば釣りする海人の袖返る見ゆ 万葉集より」と彫り込まれていた。
さらに北上し、約三十分ほどでホテルレイクオーツカに到着。正面には、琵琶湖周航の歌碑があった。その右手に歌は先ほどのと同じであるが、歌碑が建てられていた。釣り人が写っているのは残念ながら琵琶湖周航の歌の方である。湖岸では金髪の女性が二人水着姿でびわ湖を満喫していた。
最後は田上(たがみ)公園である。大戸川の支流天神川に沿った約1kmにおよぶ細長い公園である。最初に車を止めたのが、田上枝公園グラウンドである。歌碑はなさそうなので、もう一度ナビのデータを入れなおす。結局細長い公園をほぼ回り込む感じで田上公園の駐車場に車を止める。細長い公園を歌碑を求めて散策。キャンプ場の施設があり、その奥まですすむ。川沿いも丹念に見て回るが見当たらない。結局天神川の橋まで来てしまうが見つからず。公園案内図には施設の説明はあるが、歌碑は示されていない。
駐車場に戻る途中で、犬の散歩中の女性に尋ねるが、見たような気はするが、との返事であった。そこに、同じく犬を散歩させている男性が近づいてきた。すがる思いで、写真を見せて訪ねる。見たことがあるが、確かかどうか、と言いながら、道を教えてもらう。最初に車を止めた、田上枝公園グランドの所である。車を止め、入り口近くのこんもり茂った中に砂防事業に関する碑が二つある。道路に近い方の「砂防百年碑」の側面に万葉集の歌が記されていた。
側面:萬葉集 藤原宮之役民作歌
いはばしる 近江の国の衣手の
田上山の 真木さく檜のつまでを
もののふの 八十字治川に
玉藻なす浮かべ流せれ
碑文
万葉の昔、ヒノキ、スギ、カシの美林であった田上山は江戸時代末期には一点の緑もないはげ山となった。
明治五年から滋賀県が砂防事業に着手し、その後明治十一年からは内務省(今の建設省)が施工して今日まで百年を越える長い間山腹緑化に努力してきたものである。
ここに先人の努力を称えるために、記念碑を建立してその偉大な業績を後世に伝えるものである。
輝豪者 石山寺座主 鷲尾隆輝
※「砂防に関する石碑」滋賀県砂防課ブログ参照
最後の歌碑はあきらめず追っかけたのが良かった。滞在時間、探索距離は当日の最高記録でしかもダントツであった。
終わりよければすべて良し!
●本日のザ・モーニングセット&フルーツフルデザート
サンドイッチは、レタスとトマトそして焼き豚である。三角形に切り、交互に並べた。デザートは、りんごの飾り切りを真ん中に配した。周囲をブドウの切合わせで加飾した。