●歌は、「山辺の御井を見がてり神風の伊勢娘子ども相見つるかも」である。
●歌をみていこう。
◆山邊乃 御井乎見我弖利 神風乃 伊勢處女等 相見鶴鴨
(長田王 巻一 八一)
≪書き下し≫山辺(やまのへ)の御井(みゐ)を見がてり神風(かむかぜ)の伊勢娘子(いせをとめ)ども相見(あひみ)つるかも
(訳)山辺の御井(みい)、この御井を見に来て、はからずも、神風吹く伊勢のおよめたちに出逢うことができた。(伊藤 博著「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)
(注)かむかぜの【神風の】:枕詞。地名「伊勢」にかかる。「かみかぜの」とも。
題詞は、「和銅五年壬子夏四月遣長田王于伊勢神宮時山邊御井作歌」<和銅五年壬子(みづのえね)の夏の四月に、長田王(ながたのおほきみ)を伊勢の斎宮(いつきのみや)に遣(つか)はす時に、山辺(やまのへ)の御井(みゐ)にして作る歌>である。
「山辺の御井」については、「國學院大學デジタル・ミュージアム」に次のように記されている。「伊勢にある、当時名高かった聖なる井。万葉集1-81に和銅5年4月に長田王を伊勢の斎宮に遣わした時に、王が『山辺の御井』で作った歌として『山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢娘子ども 相見つるかも』を載せる。また13-3235に、天皇の行宮が営まれた地として伊勢の『山辺の 五十師(いし)の御井』があり、それも同所かという。鈴鹿市山辺付近とも、一志郡新家付近また同郡嬉野町宮古ともいわれるが、確証はない。地下水などを湛え、またそれを汲み取る「井」は、自然のものも人工のものもあり、地名としても多く残っているが、「御」を冠している「御井」からは、その水と土地の聖性がうかがえる。湧き出る水が人間の生活と命を支えるものであることはいうまでもない。(中略)長田王の歌の「伊勢娘子ども」も、井に奉仕し、その水を汲む聖なる女性たちを彷彿とさせる。内親王や女王の奉仕する斎宮とどこかでクロスしながら、『山辺の御井』は、聖なる水を滾々と湛える山際の井として印象づけられていたといえる。」
グーグル検索で「鈴鹿市山辺町 万葉歌碑」でヒットした諸先人たちのブログ等を調べるも位置が特定できない。「万葉歌碑、所在地 三重県鈴鹿市山辺町276」を参考に現地まかせと決め、当日ナビをセット。現地へ。ここと思しき所を右折すると未舗装の荒れた道になる。もう一度調べなおすため、車を止められそうなところを探す。しばらく行くと少し広くなったところがあったので、車を止め調べてみるがわからない。そこからは上りの山道になっている。中学生と思われる集団が自転車を押しながら登って行く。山越えして学校に行くのだろうかと思って、目で追いかけると、山道の途中に案内板のようなものが見える。確認のため近づくと、何と「山辺の御井」とあり、矢印が示されていた。
そこからは下り坂である。プラスチック製の育苗箱を逆さにして重ね土を盛った急ごしらえの坂道である。昨年の台風の影響と思われる爪痕が。木が倒れ、おどおどしい感じでもある。しばらく行くと左手に白い看板のようなものが見えて来た。
「万葉遺跡 山辺の御井」の説明がなされており、その右手に「山辺の御井の碑」が建てられていた。説明によると、この碑は、慶應二年(一八六七年)に七代神戸城主本多忠貫が建立したとある。碑文のなかにこの歌が彫りこまれているようであるが残念ながら確認できなかった。
赤人の屋敷跡と言われるなど、歴史ロマンあふれる所である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)