●歌は、「絶等寸の山の峰の上の桜花咲かむ春へは君を偲はむ」である。
●歌をみてみよう。
題詞は、「石川大夫遷任上京時播磨娘子贈歌二首」<石川大夫(いしかはのまへつきみ)、遷任して京に上(のぼ)る時に、播磨娘子(はりまのをとめ)が贈る歌二首>である。
◆絶等寸笶 山之峯上乃 櫻花 将開春部者 君之将思
(播磨娘子 巻九 一七七六)
≪書き下し≫絶等寸(たゆらき)の山の峰(を)の上(へ)桜花咲かむ春へは君を偲はむ
(訳)絶等寸(たゆらき)の山の峰のあたりの桜花、その花が咲く春の頃には、いつも花によそえてあなた様を思うことでしょう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)絶等寸(たゆらき)の山:播磨国府のあった姫路市の岡か。
(注)播磨娘子:播磨の遊行女婦か
(注)遊行女婦(読み)ゆうこうじょふ :各地をめぐり歩き、歌舞音曲で宴席をにぎわした遊女。うかれめ。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)
もう1首の方もみてみよう。
◆君無者 奈何身将装餝 匣有 黄楊之小梳毛 将取跡毛不念
(播磨娘子 巻九 一七七七)
≪書き下し≫君なくはなぞ身(み)装(よそ)はむ櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も取らむとも思はず
(訳)あなた様がいらっしゃらなくては、何でこの身を飾りましょうか。櫛笥(くしげ)の中の黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)さえ手に取ろうとは思いません。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)くしげ 【櫛笥】:櫛箱。櫛などの化粧用具や髪飾りなどを入れておく箱。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)つげ【黄楊】名詞:木の名。つげの木。櫛(くし)・版木の材にする。(学研)
(注)をぐし【小櫛】名詞:櫛(くし)。 ※「を」は接頭語。(学研)
「つげ」の樹の材質は、強く、目が細く、弾力に優れていることから櫛の材料にも使われていた。その材は黄色いため「黄楊」とあてられていた。
万葉の時代には、「つげ」は植物として自然の中で認識されるよりも、身近な調度としての意識が高かったものと思われる。
石川大夫のような中央官人が任を終えて帰京するとなると、播磨娘子のように「行きずりの恋」に終止符がうたれ、悲嘆にくれざるをえない。一七七六歌の「桜花咲かむ春へは君を偲はむ」といい、一七七七歌の「君なくはなぞ身(み)装(よそ)はむ」、「黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も取らむとも思はず」の文言は、なんといういとおしい言い回しであろうか。
播磨娘子のような「遊行女婦」は、歌舞音曲で宴席に興を添えるそれなりの教養レベルを身に付けていたのである。古歌をそらんじ、それを歌うこともしていたのであろう。
遊行女婦との贈答歌が一七七八、一七七九歌として収録されている。こちらもみてみよう。
題詞は、「藤井連遷任上京時娘子贈歌一首」<藤井連(ふぢゐのむらじ)、遷任して京に上(のぼ)る時に、娘子(をとめ)が贈る歌一首>である。
◆従明日者 吾波孤悲牟奈 名欲山 石踏平之 君我越去者
(娘子<未詳> 巻九 一七七八)
≪書き下し≫明日(あす)よりは我(あ)れは恋ひなむな名欲山(なほりやま)岩(いは)踏(ふ)み平(なら)し君が越え去(い)なば
(訳)明日からは、私はさぞかし恋しくてならないことでしょう。あの名欲山を、岩踏み平しながらあなたのご一行が一斉に越えて行ってしまったならば。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)娘子:九州の女性。遊行女婦か。
(注)名欲山は、大分県にある山で今の「木原山」をさすらしい。
この歌に対して、題詞「藤井連和歌一首」<藤井連が和(こた)ふる歌一首>にあるように応えている歌である。
◆命乎志 麻勢久可願 名欲山 石踐平之 復亦毛来武
(藤井連 巻九 一七七九)
≪書き下し≫命(いのち)をしま幸(さき)くあらなむ名欲山(なほりやま)岩踏み平(なら)しまたまたも来(こ)む
(訳)命長くいついつまでも達者でいてほしい。そうしたら、名欲山の岩をこの足で踏み平しては、何回もやって来よう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)あらなむ【有らなむ】分類連語:あってほしい。あってくれ。 ※なりたち➡ラ変動「あり」の未然形+他に対する願望の終助詞「なむ」(学研)
(注)またまた【又又・復復】〘副〙 (「また(又)」を強めた言い方) さらに重ねて。なおも再び。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
娘子の切ない歌に答えるとは、藤井連もそれなりの思いがあったのだろう。
このような贈答歌が万葉集に収録されていることは驚きである。
越中時代に、家持が、部下の尾張小咋(おはりのおくい)が佐夫流子(さぶるこ)とうつつを抜かしているのを諭しているように、遊行女婦との関係もシークレットに属する部分であるが、上述のように万葉集には「娘子」としての歌が収録されている。
どのような経緯で、これらの歌が記憶され、記録され、伝播され、万葉集の編纂において収録されたか、興味深いところである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」