―その703―
●歌は、「橡の衣解き洗ひ真土山本つ人にはなほ及かずけり」である。
●歌碑(プレート)は、和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘万葉植物園(7)にある。
●歌をみていこう。
◆橡之 衣解洗 又打山 古人尓者 猶不如家利
(作者未詳 巻十二 三〇〇九)
≪書き下し≫橡(つるはみ)の衣(きぬ)解(と)き洗ひ真土山(まつちやま)本(もと)つ人にはなほ及(し)かずけり
(訳)橡(つるばみ)染めの地味な衣を解いて洗って、また打つという、真土(まつち)山のような、本つ人―古馴染の女房には、やっぱりどの女も及ばなかったわい。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)上二句「橡之 衣解洗」は、マタ打ツ意で「真土」を起こす序。上三句「橡之 衣解洗 又打山」はマツチと類音で「本つ」を起こす。
(注)もとつひと【元つ人】名詞:昔なじみの人。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞。(学研)
(注)真土山(読み)マツチヤマ:奈良県五條市と和歌山県橋本市との境にある山。吉野川(紀ノ川)北岸にある。[枕]同音の「待つ」にかかる。(コトバンク デジタル大辞泉)
「橡(つるばみ)」は、クヌギのことである。「橡(つるばみ)の衣」とは、クヌギの実(どんぐり)を砕いて煎じた汁で染めた紺黒色の粗末な衣服をいう。
―その704―
●歌は、「昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木の花君のみ見めや戯奴さへに見よ」である。
●歌碑(プレート)は、和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘万葉植物園(8)にある。
●歌をみていこう。
◆晝者咲 夜者戀宿 合歡木花 君耳将見哉 和氣佐倍尓見代
(紀女郎 巻八 一四六一)
≪書き下し≫昼は咲き夜(よる)は恋ひ寝(ね)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ
(訳)昼間は花開き、夜は葉を閉じ人に焦がれてねむるという、ねむの花ですよ。そんな花を主人の私だけが見てよいものか。そなたもご覧。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)きみ【君・公】名詞:①天皇。帝(みかど)。②主君。主人。③お方。▽貴人を敬っていう語。④君。▽人名・官名などの下に付いて、「…の君」の形で、その人に敬意を表す。(学研) ここでは、②の意
(注)わけ【戯奴】代名詞:①私め。▽自称の人称代名詞。卑下の意を表す。②おまえ。▽対称の人称代名詞。目下の者にいう。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この歌は、紀女郎が大伴家持に贈った歌の一首である。紀女郎が大伴家持に対して戯れて戯奴(わけ)と呼んでいる。家持の女性遍歴は有名であるが、坂上大嬢と結婚して以降は、紀女郎以外はほとんど影を潜めていく。紀女郎は、安貴王の妻であり、この歌にもあるように、戯れためいたところがあるから、友愛程度の面が濃かったものと思われる。年齢も家持よりははるかに上であったと思われている。
もう一首の一四六〇歌ならびに家持が、和(こた)えて贈った歌二首(一四六二、一四六三歌)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その487)」で紹介している。
➡ こちら487
―その705―
●歌は、「君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小枝も取らむとも思はず」である。
●歌碑(プレート)は、和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘万葉植物園(9)にある。
●歌をみていこう。
◆君無者 奈何身将装餝 匣有 黄楊之小梳毛 将取跡毛不念
(播磨娘子 巻九 一七七七)
≪書き下し≫君なくはなぞ身(み)装(よそ)はむ櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も取らむとも思はず
(訳)あなた様がいらっしゃらなくては、何でこの身を飾りましょうか。櫛笥(くしげ)の中の黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)さえ手に取ろうとは思いません。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)くしげ【櫛笥】名詞:櫛箱。櫛などの化粧用具や髪飾りなどを入れておく箱。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
題詞は、「石川大夫遷任上京時播磨娘子贈歌二首」<石川大夫(いしかはのまへつきみ)、遷任して京に上(のぼ)る時に、播磨娘子(はりまのをとめ)が贈る歌二首>である。
(注)播磨娘子:播磨の遊行女婦か
(注)いうこうじょふ【遊行女婦】:各地をめぐり歩き、歌舞音曲で宴席をにぎわした遊女。うかれめ。
この一七七七歌に関して、中西 進氏は、その著「万葉の心(毎日新聞社)」のなかで、「名さえも伝えられない娘子だが、石川の某という官人が帰京するときに、こうした歌をよんだ。娘子階層のもので櫛を持っているなどというのは上等なことなのだが、その上に黄楊の小櫛という高級品を、娘子は大切に匣に入れて持っていた。せい一杯身を飾るときに、彼女はそのとっておきの櫛で髪をすくのである。石川某が訪れてくる時は、いつもそうであった。ところがもう帰ってしまうと、美しく装う必要はない。黄楊の小櫛も、もはや空しいのである。」と書いておられる。なんといういとおしい歌であろう。
もう一首の一七七六歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その224)で紹介している。
➡ こちら224
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」