万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その799)―瀬戸内市邑久町尻海 道の駅一本松展望園―万葉集 巻十五 三五九八 

●歌は、「ぬばたまの夜は明けぬらし玉の浦にあさりする鶴鳴き渡るなり」である。

 

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瀬戸内市邑久町尻海 道の駅一本松展望園(作者未詳)

●歌碑は、瀬戸内市邑久町尻海 道の駅一本松展望園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆奴波多麻能 欲波安氣奴良 多麻能宇良尓 安佐里須流多豆 奈伎和多流奈里

               (作者未詳 巻十五 三五九八)

 

≪書き下し≫ぬばたまの夜(よ)は明けぬらし玉(たま)の浦にあさりする鶴(たづ)鳴き渡るなり

 

(訳)ぬばたまの夜は今ようやく明けていくらしい。玉の浦で餌(えさ)をあさる鶴が鳴きながら飛んで行く。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)玉の浦:岡山県玉島あたりか。

(注)あさり【漁り】名詞 ※「す」が付いて他動詞(サ行変格活用)になる:①えさを探すこと。②魚介や海藻をとること。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

この歌は「遣新羅使人等」の歌であり、次の歌群の一首である。

三五九四から三六〇一歌の歌群の左注は、「右八首乗船入海路上作歌」<右の八首は、船に乗りて海に入り、路の上(うへ)にして作る歌>とある。難波津から広島県鞆の浦までの航海上に詠った歌である。

この歌群の歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その623)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 巻十五は、ふたつの大歌群からなる特異な構成になっている。

 すなわち、「遣新羅使人に関する歌群(三五七八から三七二二歌の一四五首)」と「中臣宅守(なかとみのやかもり)・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)の間でとりかわされた歌群(三七二三から三七八五歌の六三首)」の構成になっている。他の巻にはない大きな特徴をもっている。

 

 このうち「「遣新羅使人に関する歌群」の題詞は、「遣新羅使人等悲別贈答及海路慟情陳思并當所誦之古歌」<遣新羅使人等(けんしらきしじんら)、別(わかれ)を悲しびて贈答(ぞうたふ)し、また海路(かいろ)にして情(こころ)を慟(いた)みして思ひを陳(の)べ、幷(あは)せて所に当りて誦(うた)ふ古歌>である。

目録には、「天平八年丙子夏六月遣使新羅國之時使人等各悲別贈答及海路之上慟旅陳思作歌幷當所誦詠古歌一百四十五首」とあり、聖武天皇天平八年(七三六年)六月に出発したと思われるが、「続日本紀」には記載がない。

 万葉集の本文の題詞に年次を記さないのは、歌を歌としてとらえ、特定の年次に関わる歌として詠むことを求めていないと考えられる。

 

この天平八年六月に難波の港を出発した遣新羅使人の大使は阿倍継麻呂(あべのつぎまろ)で副使は、大伴三中(おおとものみなか)であった。

秋に帰る予定が、海路の日和に恵まれず、まだ、秋には壱岐対馬あたりで難航していたのである。そして翌年天平九年一月漸く都へ帰って来たのであるが、その帰路対馬で大使阿倍継麻呂が亡くなるという不幸に見舞われたのである。また副使の大伴三中も病に倒れ、遅れて帰るという始末であった。そのうえ、新羅は唐を後盾にしており、日本を相手にしなかったこともあり、遣新羅使は何の役目を果たせず無念の帰国となったのである。

上述の「右八首乗船入海路上作歌」を詠っていた頃は、秋には帰れるという希望のなかで、使命も果たすという強い気持ちがあったであろうが、その時は先で待っている苛酷な現実は夢にも思わなかったことであろう。

巻十五は、このような遣新羅使人の歌でもって、ある意味ドキュメンタリー風な構成に仕上がっている。「歌だけの力による物語としての構成」(伊藤 博氏)は、万葉集として他の巻にない大きな試みがなされたと考えられるのである。

類歌等から推察するに物語風に構成された歌物語、例えば巻二の磐姫皇后の四首などとは違う凄みを持っているのである。このような試みも包含するところにも万葉集万葉集たる所以が潜んでいると考えられるのである。

 

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道の駅一本松展望園

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ブルーライン説明案内板

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道の駅からの遠望



 

★★★倉敷・笠岡他万葉歌碑巡り★★★

 

10月27日、28日と倉敷に所用があったので、ゴーツートラベル制度も利用して、せっかくなので倉敷・笠岡周辺と以前訪れた時に、盲腸ラインのようなところであり、効率的に廻れないが故に切り捨てた相生市の中央公園、たつの市の藻振鼻、加古川市の泊神社をそれぞれ訪ねてきた。

 

順路は、「瀬戸内市邑久町尻海 道の駅一本松展望園➡瀬戸内市牛窓 牛窓神社➡倉敷市児島駅倉敷市玉島 玉島公民館➡笠岡市神島 天神社➡笠岡市神島外浦 日光寺➡兵庫県相生市那波南本町 中央公園➡たつの市御津町室津 藻振鼻➡加古川市木村宮本 泊神社」である。ここでは、万葉歌碑の所在場所を書き記し、歌の解説は順次紹介することさせていただきます。

 

―道の駅一本松展望園万葉歌碑―

岡山ブルーラインの道の駅一本松展望園には『ミニ鉄道公園』がある。全国的にも有名だそうである。ミニ鉄道公園と道の駅本館の間の海が展望できるところに歌碑が建てられている。歌碑の処あたりから眺める瀬戸内海はなかなかのものである。

 

牛窓神社万葉歌碑―

 牛窓海水浴場のすぐ横に鳥居があり、そこから小高い山に登るきつい参道石段がある。長い石段を上った林の中に牛窓神社社殿がある。

万葉歌碑は、海辺の鳥居の参道右手に海を背に建てられている。

 

児島駅万葉歌碑―

 児島駅西口駅前広場、沢山のジーンズを天井からぶら下げた装飾の通路の先、左手のポケットパークに歌碑が建てられている。

 

―玉島公民館万葉歌碑―

 入口入ってすぐ、右手駐車場側に建てられている。

 

―神島天神社万葉歌碑―

 海辺側の鳥居から社殿に向かって左手に建てられている。

 

月照山日光寺万葉歌碑―

 神島天神社から海岸沿いを走り、下の駐車場に車を止め、急坂参道を登る。寺の山門を出た瀬戸内海を望む広場に海を背に歌碑は建てられている。

 

相生市中央公園万葉歌碑―

 公園内の図書館、歴史民俗資料館の横の小高い小山のてっぺんに歌碑が建てられている。

 

―藻振鼻万葉歌碑―

 盲腸線の最たるものである。藻振観音堂跡の広場のあずま屋の横に歌碑は建てられている。その下は崖になっており、磯釣りをしている人も。

 

―泊神社万葉歌碑―

 神社入口前、川沿いに駐車場があり、神社に向かって左手橋のたもと近くに建てられている。雑草に埋まっている感じであるので少し見つけづらい。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「万葉集をどうよむか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」