●歌は、「飛騨人の真木流すといふ丹生の川言は通へど舟ぞ通はぬ」である。
●歌をみていこう。
◆斐太人之 真木流云 尓布乃河 事者雖通 船會不通
(作者未詳 巻七 一一七三)
≪書き下し≫飛騨人(ひだひと)の真木(まき)流すといふ丹生(にふ)の川言(こと)は通(かよ)へど舟ぞ通はぬ
(訳)飛騨の国の人が真木を伐って流すという丹生(にう)の川、この川は岸と岸で言葉は通うけれども、舟は通わない。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)飛騨人:岐阜県飛騨地方の人。
(注)まき【真木・槙】名詞:杉や檜(ひのき)などの常緑の針葉樹の総称。多く、檜にいう。 ※「ま」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)丹生(にふ)の川:高山市丹生川町の小八賀川か。(伊藤脚注)
10月18日から全国旅行支援を利用して1泊2日で岐阜県の万葉歌碑巡りを行なった。
■■■岐阜県万葉歌碑巡り(10月18~19日)■■■
≪旅程≫
■■10月18日■■
自宅→高山市丹生川町町方 丹生川文化ホール→同町根方地区 ほえ橋→飛騨市古川町 細江歌塚→可児市久々利 可児郷土歴史館・万葉の庭→同町 泳宮古蹟→安八郡神戸町 神戸町役場→同町 日比野五鳳記念碑→大垣市内ホテル
■■10月19日■■
ホテル→養老公園・元正天皇行幸遺跡(1)(2)→養老神社→(滋賀県近江八幡市牧町 水茎の岡)→自宅
家を3時に出発。300kmのドライブである。
1時起床であるから前日18時には床に就く。しかし子供の頃の遠足みたいなもので興奮しているのかなかなか寝付けない。ウトウトとしたと思ったが、22時頃に目が覚め、そこからはお目々ランランである。
途中で休憩をとりつつ安全運転。
養老SAで1時間ほど仮眠をとった。
東海北陸道で飛騨高山に向かうだけに標高が高くなって来る。途中「高速道路の標高日本一」の文字が目に飛び込んできた。(荘川ICと飛騨清見IC間で標高1085m)
これまでに経験したことのない山の景色に感動しながらのドライブである。
丹生川文化ホールに到着したのは9時前であった。
ホール前の歌碑の裏には「村名由来の碑」として次の様に書かれている。
「丹生川村は 明治八年三月小八賀郷二十七箇村と荒城郷五箇村が一つになって誕生しました。丹生川という名は万葉集巻第七 一一七三の歌 斐太人之 真木流云 尓布乃河 事者雖通 船會不通 から名づけられたといわれています。 開村百二十周年を迎えこの碑を建立しました・・・」と書かれている。
万葉集の歌から村の名前をつけるなんてなんと素敵な発想でではないか。都から離れた飛騨の山奥の村であるのに。
しかし、巻十六 三八四四歌では飛騨産の大黒馬が詠われているように、都の人にとって身近な存在であったようである。
三八四四歌ならびに三八四五歌をみてみよう。
題詞は、「嗤咲黒色歌一首」<黒き色を嗤(わら)ふ歌一首>である。
◆烏玉之 斐太乃大黒 毎見 巨勢乃小黒之 所念可聞
(土師水通 巻十六 三八四四)
≪書き下し≫ぬばたまの斐太(ひだ)の大黒(おほぐろ)見るごとに巨勢(こせ)の小黒(をぐろ)し思ほゆるかも
(訳)ぬばたまの斐太の大黒を見ると、そのたんびに、巨勢の小黒までが、しきりに思われてくるんだな。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)斐太の大黒見るごとに:大男巨勢斐太朝臣の色の黒さを見るたびに。「斐太の大黒」には飛騨産の大黒馬の意をこめるか。(伊藤脚注)
(注)巨勢の小黒:小男巨勢朝臣豊人の色の黒さ。巨勢産の小黒馬の意をこめるか。(伊藤脚注)
題詞は、「答歌一首」<答ふる歌一首>である。
◆造駒 土師乃志婢麻呂 白久有者 諾欲将有 其黒色乎
(巨勢豊人 巻十六 三八四五)
≪書き下し≫駒造(こまつく)る土師(はじ)の志婢麻呂(しびまろ)白くあればうべ欲(ほ)しからむその黒色を
(訳)土駒造る土師(はじ)の志婢麻呂、このやっこさんは青っ白(あおっちろ)いもんだから、なるほどほしいんだろうよ、あの真っ黒い色がさ。(同上)
(注)駒造る:「土師」の枕詞。「駒」は、ここは埴輪の馬。前歌の「大黒」「小黒」に応じる。(伊藤脚注)
左注は、「右歌者傳云 有大舎人土師宿祢水通字曰志婢麻呂也 於時大舎人巨勢朝臣 豊人字曰正月麻呂 与巨勢斐太朝臣、≪名字忘之也 嶋村大夫之男也>兩人並 此彼皃黒色焉 於是土師宿祢水通作斯歌嗤咲者 而巨勢朝臣豊人聞之 即作和歌酬咲也」<右の歌は、伝へて云はく、「大舎人(おほとねり)、土師宿禰水通(はにしのすくねみみち)といふものあり。字は、志婢麻呂といふ。時に、大舎人巨勢朝臣豊人(こせのあそみとよひと)、字は正月麻呂(むつきまろ)といふものと、巨勢斐太朝臣(こせひだのあそみ 名・字は忘れたり。島村大夫が男なりと両人(ふたり)、ともにこもこも貌黒き色なり。ここに、土師宿禰水通、この歌を作りて嗤咲‘わら)へれば、巨勢朝臣豊人、これを聞きて、すなはち和(こた)ふる歌を作りて酬(こた)へ咲(わら)ふ」といふ。
(注)土師宿禰水通:筑紫の梅花の宴の一員。(伊藤脚注)
(注)この歌:三八四四歌。
(注)和ふる歌:三八四五歌。
巻十六には、このようなからかうやりとりの「・・・を嗤(わら)ふ歌」が三八四〇~三八四七歌、三八五三~三八五四歌と十首収録されている。
高山市上宝町駒ヶ鼻峠には「史蹟 名馬大黒の碑」が立っており、その傍に三八四四歌の歌碑がある。
グーグルマップのストリートビューで歌碑の確認はできたのである。グーグルの車が走れているので大丈夫だと思うが、道中の山道の細さを考えやむなくパスすることにしたのである。
いつか挑戦はしてみたい。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」