万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1958)―鳥取県倉吉市南昭和町 深田公園―万葉集 巻五 八〇三

●歌は、「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」である。

鳥取県倉吉市南昭和町 深田公園万葉歌碑(山上憶良

●歌碑は、鳥取県倉吉市南昭和町 深田公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母

       (山上憶良 巻五 八〇三)

 

≪書き下し≫銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに)まされる宝子にしかめやも

 

(訳)銀も金も玉も、どうして、何よりすぐれた宝である子に及ぼうか。及びはしないのだ。(同上)

(注)なにせむに【何為むに】分類連語:どうして…か、いや、…ない。▽反語の意を表す。 ※なりたち代名詞「なに」+サ変動詞「す」の未然形+推量の助動詞「む」の連体形+格助詞「に」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 (注)しかめやも【如かめやも】分類連語:及ぼうか、いや、及びはしない。※なりたち動詞「しく」の未然形+推量の助動詞「む」の已然形+係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

 八〇二歌の題詞は、「子等を思ふ歌一首 幷せて序」である。八〇三歌は反歌として詠われている。序ならびに長・短歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1508)」で紹介している。1508では、八〇〇・八〇一歌(情苦)、八〇二・八〇三歌(愛苦)、八〇四・八〇五歌(老苦)の三群の歌を紹介している。

 

この歌については、直近では拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1935)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

国府町町屋 因幡万葉歴史館→倉吉市南昭和町 深田公園■

 万葉歌碑の撮影を終え因幡万葉歴史館をあとにして一路、伯耆国守であった山上憶良の歌碑を訪ね倉吉市へ向かったのである。約1時間のドライブである。

深田公園は倉吉市南昭和町のすずかけ通りに面した所を長辺とする三角形の形をしている。グーグルストリートビューで公園の周りを幾度となく探索したが事前には特定できなかった。

入口トイレ近くが本命ではないかと幾度となく探索したが、結局分からずじまいであった。

現地でスペースに車を停め、公園内を探索する。入り口近くを入念に探す。あるようでない。あとは、北西コーナーあたりの小山の木蔭あたりにあると見当をつけ、そちらに移動する。ありました。どっしりとした重厚感のある歌碑を見つけたのである。

木蔭の歌碑

 

因幡国大伴家持伯耆国山上憶良

 鳥取県HPには、「万葉の郷とっとりけんパンフレット」について、「鳥取県は、大伴家持山上憶良万葉歌人奈良時代にそれぞれ因幡国守、伯耆国守として赴任しており、万葉ゆかりの地が多くあることから、万葉歌人やゆかりの地を紹介しこれら文化資源の魅力発信を目的としたパンフレットをこのたび新規作成、発行しました。」と書かれている。

「万葉の郷とっとりけんパンフレット」には、①鳥取県万葉集ゆかりの地マップ、②

大伴家持の人物紹介、③因幡国のゆかりの地、④山上憶良の人物紹介、⑤伯耆国のゆかりの地、⑥門部王、柿本人麻呂の人物紹介、⑦ゆかりの万葉歌人年表、⑧万葉集の基礎知識、⑨万葉グルメ~奈良時代の食事、⑩鳥取県へのアクセスなどが紹介されている。

 そして、「鳥取県万葉集ゆかりの地マップ」には、「『万葉集』は、現存する日本最古の歌集といわれています。 主に7世紀前半から8世紀にかけて、天皇や貴族、防人、農民などさまざまな立場の人約460名(作者不詳除く)に詠まれた、4500首以上の和歌が収められています。編さんに関わったと言われるのは、758年(天平宝字2年)に因幡国(現在の鳥取県東部)の国守として赴任した万葉歌人大伴家持。家持が翌759年元日に因幡国庁で詠んだ新年を寿ぐ歌は万葉集の最後を飾っています。

 その頃からさかのぼること約30年の730年(天平2年)1月に、家持の父・大伴旅人は長官として赴任していた大宰府(今の福岡県太宰府市)の自宅で庭の梅を囲む宴を開きました。新元号『令和』は、その宴で詠まれた歌32首のまとまりを解説した万葉集巻5『梅花の歌三十二首并せて序』の一節から考案されました。この宴には716年(霊亀2年)から5年間、伯耆国(現在の鳥取県中西部)の国守を務めた山上憶良も出席していました。奈良時代鳥取県に赴任した二人の歌人は、『万葉集』に深く関わり、新元号『令和』ともつながっていたのです。

 このように鳥取県には『万葉集』ゆかりの地が多くあります。万葉集に込められた情景に思いをはせながら、ゆかりの地を訪ねてみませんか。」と書かれている。

「万葉の郷とっとりけんパンフレット」のP1.P2

 

因幡国伯耆国」の由来などについては、「フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」に各々次の様に書かれている。

 

因幡国

「いなば」の表記について、古くは『古事記』で「稲羽」、『先代旧事本紀』で「稲葉」と記される。その由来は定かでないが、稲葉神社(鳥取市立川)では、社名を因幡国の名称の由来と伝える。

なお「イナバ」(稲葉、因幡、印旛、印葉、稲羽)の固有名詞は、山陰道の稲葉国造、同国法美郡の稲羽郷・稲葉山のほか、大和国天理市の稲葉、美濃国厚見郡稲葉山(三野後国造の中心領域で、式内社物部神社も鎮座)、や「天孫本紀」の印葉という者(武諸隅命の孫とされる)、「国造本紀」の久努国造の祖・印播足尼(伊香色男命の孫とされる)などに見える。

 

伯耆国

藤原宮跡から出土した戊戌年文武天皇2年・698年)6月の年月が記された木簡に、「波伯吉国」とある。7世紀代の古い表記を多く残す『古事記』では、これと別の伯伎国という表記が見える。平安時代編纂だがやはり古い表記を残す『先代旧事本紀』には、波伯国造が見える。 伯耆国風土記によると手摩乳、足摩乳の娘の稲田姫を八岐大蛇が喰らおうとしたため、山へ逃げ込んだ。その時母が遅れてきたので姫が「母来ませ母来ませ」と言ったことから母来(ははき)の国と名付けられ、後に伯耆国となったという。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」

★「万葉の郷とっとりけんパンフレット」 (鳥取県HP)