万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2112)―大阪市西淀川区大和田 大和田住吉神社―万葉集 巻六 一〇六七

●歌は、「浜清み浦うるはしみ神代より千舟の泊つる大和太の浜」である。

大阪市西淀川区大和田 大和田住吉神社万葉歌碑(田辺福麻呂

●歌碑は、大阪市西淀川区大和田 大和田住吉神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆濱清 浦愛見 神世自 千船湊 大和太乃濱

       (田辺福麻呂 巻六 一〇六七)

 

≪書き下し≫浜清み浦うるはしみ神代(かみよ)より千舟(ちふね)の泊(は)つる大和太(おほわだ)の浜(はま)

 

(訳)浜は清らかで、浦も立派なので、遠い神代の時から舟という舟が寄って来て泊まった大和太(おおわだ)の浜なのだ、ここは。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)-み 接尾語:①〔形容詞の語幹、および助動詞「べし」「ましじ」の語幹相当の部分に付いて〕(…が)…なので。(…が)…だから。▽原因・理由を表す。多く、上に「名詞+を」を伴うが、「を」がない場合もある。②〔形容詞の語幹に付いて〕…と(思う)。▽下に動詞「思ふ」「す」を続けて、その内容を表す。③〔形容詞の語幹に付いて〕その状態を表す名詞を作る。④〔動詞および助動詞「ず」の連用形に付いて〕…たり…たり。▽「…み…み」の形で、その動作が交互に繰り返される意を表す。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意

(注)大和太の浜:神戸市兵庫区和田岬から北東方へかけての湾入した海岸。(伊藤脚注)

 

新版 万葉集 二 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) [ 伊藤 博 ]

価格:1,100円
(2023/3/25 23:28時点)
感想(0件)

 左注は「右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也」<右の二十一首は、田辺福麻呂(たなべのさきまろ)が歌集の中に出づ>である。伊藤 博氏は、脚注で「この歌集の歌は福麻呂自身の作と見られる」と記されている。                       

 

 一〇六五から一〇六七歌までの歌群の題詞は、「過敏馬浦時作歌一首并短歌」<敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時に作る歌一首幷(あは)せて短歌>である。

 

この歌については、神戸市灘区岩屋中町 敏馬神社の歌碑群とともに拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その565)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

「判官松の由来と大和田住吉神社 万葉歌碑の由来」説明案内板

 大和田住吉神社内の説明案内板「判官松の由来と大和田住吉神社 万葉歌碑の由来」の内の万葉歌碑の由来のところには、「濱清み浦なつかしき神代より千船の泊る大和田の濱(読み人しらず)

万葉集にかいまみることのできる大和田を歌った古い和歌の碑である。併しこの歌の大和田の泊と呼ばれた附近を詠んだものであるとの説があるが、これは謬りで、摂津名所図会には、大和田が『御手村の西北に在り此所尼崎に近くして河海の界なり、故に魚鱗多し殊に鯉多く集まれば常に魚す。これを大和田の鯉摑みという、なお浦浜古詠あり兵庫の和田岬とするのは謬也』とことわつている。尚土佐日記の一文を引用しこの歌をのせているので、

この万葉碑の重要性を再認識したいものである。」と書かれている。

 

 この説明案内板によると一〇六七歌は、「読み人しらず」となっており、この一〇六七歌単独で議論をすすめている印象が強いように思える。

 一〇六五(長歌)、一〇六六、一〇六七歌(反歌二首)の題詞は、「敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時に作る歌一首幷(あは)せて短歌」であり、この歌群で考えるべきであろう。

 また、一〇六七歌は、巻六の巻末歌であり、左注に「右の二十一首は、田辺福麻呂が歌集に出づ」と書かれており、「読み人しらず」には該当しないのではなかろうか。

 手持ち資料も少なく素人の単純な考えであるので、郷土愛的な強い思いに対しとやかく言えないところがある。

判官松の碑と万葉歌碑

 

いろいろ検索してみると、興味深い説がみつかった。

内田美由紀氏の稿「土佐日記『わだのとまりのあかれのところ』」で、「わだのとまりについて」、村瀬氏の「『土佐日記』旅程考」での考え方を書いておられる。

「ここにいう『わだのとまり』とは現在の神戸市兵庫区にあった大輪田の泊まり(輪田泊とも称した)のことであろう。三国川の下流になる神崎川の左岸にも大和田(現大阪市西淀川区、今福より約一、五キロ下流)の地名があるが、貫之の時代には三国川河口の河尻が海に出る河口港であり、神崎川河口の大和田はまだなかったはずだから、兵庫の大輪田とすべきである。『わだのとまり』を行先の地と解するならば、『あかれのところ』は淀川本流から、大輪田の泊へ行くために分かれる場所だから、江口そのものと見ることもできる。」

内田氏は、「一般には、神戸の『大輪田』は早くに廃れたため、西淀川の『大和田』との混同が起こり、摂津名所図会や角川日本地名大辞典でも西淀川の大和田についても万葉集を引いて当該の場所としている。しかし、近年の発掘の成果から、西国海道の拠点は神戸港の元となった神戸の『大輪田』であることがわかっている。一応、西淀川の『大和田』を確認しておくと、十七世紀の様子を示す石川トシ子氏蔵摂津河内絵図や明治十八年測量十九年作図の帝国陸軍測量部地図を見ると、神崎川の曲がったところに大和田村がある。大和田の少し上流の今福には、平安末に高倉院厳島御幸記や山塊記に福原・西宮方面への水運の中継点として出てくる藤原邦綱の別荘川尻寺江があった(寺江亭跡)。平安末の川尻寺江は海から入ってくる港だったので、川の堆積を考えると、『神崎川河口の大和田はまだなかった』というのは支持したい。」と書かれている。

氏は、土佐日記に書かれている「わだのとまり」は、神戸の「大輪田の泊」でもなく、西淀川の「大和田」でもなく、現在の京阪大和田駅付近ではないかと考えておられる。そして、「あかれのところ」については、「深野池から河内へ、守口道から清滝街道を経て奈良へ、寝屋から京都へ、太間から淀川へ、それぞれ分かれていくところということではないだろうか。」と書かれている。

(注)内田氏の稿は、「国立研究開発法人科学技術振興機構平成十五年関西部会第六回例会での口頭発表を元にしたもの」とある。

 

 

 

■姫嶋神社→大和田住吉神社

 帆立の絵馬に感動した姫嶋神社をあとにして大和田住吉神社に向かう。約20分の距離である。2本目のスポーツドリンクを自販機で買い、歩き旅である。

 到着してまず目についたのは、大相撲大阪場所の宿舎の大嶽部屋王鵬の名の幟である。

大相撲大阪場所宿舎の幟と万葉歌碑

 鳥居をくぐったすぐ右手に歌碑は立てられていた。

大和田住吉神社

社殿

手水舎の龍



 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「土佐日記『わだのとまりのあかれのところ』」 内田美由紀氏 稿