万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2451)―

●歌は、「今日の日にいかにか及かむ筑波嶺に昔の人の来けむその日も」である。

茨城県つくば市大久保 つくばテクノパーク大穂万葉歌碑(高橋虫麻呂) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県つくば市大久保 つくばテクノパーク大穂にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆今日尓 何如将及 筑波嶺 昔人之 将来其日毛

        (高橋虫麻呂 巻九 一七五四)

 

≪書き下し≫今日(けふ)の日にいかにか及(し)かむ筑波嶺に昔の人の来(き)けむその日も

(訳)今日のこの楽しさにどうして及ぼう。ここ筑波嶺に昔の人がやって来たというその日の楽しさだって。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)しく【如く・及く・若く】自動詞:①追いつく。②匹敵する。及ぶ。(学研)ここでは②の意

                           

 一七五三、一七五四歌の題詞は、「検税使大伴卿登筑波山時歌一首 幷短歌」<検税使(けんせいし)大伴卿(おほとものまへつきみ)が筑波山(つくはやま)に登る時の歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

(注)検税使:諸国の正税(しょうぜい)と正税帳との照合に派遣される特使。(伊藤脚注)

(注)大伴卿:大伴旅人と思われる。

 

 一七五三歌(長歌)もみてみよう。

 

◆衣手 常陸國 二並 筑波乃山乎 欲見 君来座登 熱尓 汗可伎奈氣 木根取 嘯鳴登峯上乎 公尓令見者 男神毛 許賜 女神毛 千羽日給而 時登無 雲居雨零 筑波嶺乎 清照 言借石 國之真保良乎 委曲尓 示賜者 歡登 紐之緒解而 家如 解而曽遊 打靡 春見麻之従者 夏草之 茂者雖在 今日之樂者

        (高橋虫麻呂 巻九 一七五三)

 

≪書き下し≫衣手(ころもで) 常陸(ひたち)の国の 二並(ふたなら)ぶ 筑波の山を 見まく欲ほ)り 君来ませりと 暑(あつ)けくに 汗掻(か)き投げ 木(こ)の根取り うそぶき登り 峰(を)の上(うへ)を 君に見すれば 男神(ひこかみ)も 許したまひ 女神(ひめかみ)も ちはひたまひて 時となく 雲居(くもゐ)雨降る 筑波嶺(つくはね)を さやに照らして いふかりし 国のまほらを つばらかに 示したまへば 嬉(うれ)しみと 紐(ひも)の緒(を)解きて 家(いへ)のごと 解けてぞ遊ぶ うち靡(なび)く 春見ましゆは 夏草(なつくさ)の 茂くはあれど 今日(けふ)の楽(たの)しさ

 

(訳)ここ常陸の国の雌雄並び立つ筑波の山、この山を見たいと我が君がはるばる来られたこととて、真夏の暑い時に汗を手でぬぐい払い投げて、木の根に縋(すが)って喘(あえ)ぎながら登り、頂上を我が君にお見せすると、男神もとくにお許し下さり、女神も霊威をお垂れになって、いつもは時を定めず雲がかかり雨の降るこの筑波嶺なのに、今日ははっきり照らして、気がかりにしていたこの国随一のすばらしさを隈(くま)なく見せて下さったので、嬉しさのあまり着物の紐をほどいて、家にいるううにくつろいで遊ぶ今日一日です。草なよやかな春に見るよりは、夏草が生い茂っているとはいえ、今日の楽しさはまた別格です。(同上)

(注)ころもで【衣手】枕詞:① 着物の袖を濡らすところから、濡らす意の「ひたす」と同音を含む「常陸(ひたち)」にかかる。 ⇒(常陸風土記(717‐724頃)総記「国俗(くにぶり)の諺に、筑波岳に黒雲かかり、衣袖(ころもで)漬(ひたち)の国といふは是なり」

② 「葦毛(あしげ)」にかかる。かかり方未詳。一説に、衣手の色の「葦毛」色という意でかかるという。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)うそぶく【嘯く】自動詞:①口をすぼめて息をつく。息をきらす。②そらとぼける。③口笛を吹く。(学研)ここでは①の意

(注)ちはふ【幸ふ】自動詞:霊力を現して加護する。 ※「ち」は霊力の意。(学研)

(注)ときとなく【時と無く】分類連語:いつと決めずに。いつも。 ⇒なりたち 名詞「とき」+格助詞「と」+形容詞「なし」の連用形(学研)

(注)いぶかる【訝る】自動詞:気がかりに思う。知りたいと思う。 ※上代は「いふかる」。(学研)

(注)まほら 名詞:まことにすぐれたところ。まほろば。まほらま。 ※「ま」は接頭語、「ほ」はすぐれたものの意、「ら」は場所を表す接尾語。上代語。(学研)

(注)うちなびく【打ち靡く】分類枕詞:なびくようすから、「草」「黒髪」にかかる。また、春になると草木の葉がもえ出て盛んに茂り、なびくことから、「春」にかかる。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1172)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 「常陸国」についてみてみよう。

 茨城県HPに、「常陸」と「茨城」の由来について次のように書かれていた。

 「『常陸国風土記』に表されている『常陸』と『茨城』の由来について紹介します。

常陸』とは、直通(ひたみち)つまり『ひたつづきの道で、一路通うことができる』の意と、『倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)(日本武尊)』の衣の袖が泉に垂れて濡れたので『袖をひたす』の意が『ひたち』に転じたとしています。

また、『茨城』とは、茨城の郡の地名の由来として、昔、国巣(クズ)や佐伯(サエキ)など土着の人々が地面に穴を掘って住んでおり、大和から来た軍勢や役人の食糧などを盗み、敵対していたので、黒坂命(くろさかのみこと)が野バラであるウバラを穴に入れて滅ぼしたこと、また、砦をウバラで囲み(ウバラ城)、敵の攻撃を防いだことから『茨城』と呼ぶようになったとあります。

また、常陸国は、『常世(とこよ)国』として次のように紹介されています。

『そもそも、常陸の国は、面積が広大で、地域もはるかに遠く、土地は肥沃であり、原野は豊かで平である。新たに開発したところは、海の幸、野の幸が豊富であって、人々は安楽に満足し、家々は富み豊饒である。もし、その人が農耕に努力し、力を養蚕につくす者があるならば、すぐに富裕になり、自然に貧しさから逃れることができる。・・・・・・、いうならば海陸の宝庫、物産の楽土である。昔の人が、『常世の国』といったのは、もしかするとこの常陸の国ではないかと疑われる。・・・・・・』(出典:「口語常陸国風土記ーその歴史と文学」)

 「常陸風土記」については、「現存のものは、五風土記常陸、播磨、出雲、豊後、肥前)で、常陸国風土記の編纂者は、藤原朝臣宇合(うまかい)(藤原鎌足の子不比等(ふひと)の第三子、常陸国司)とする説が定説となりつつあります。」とも書かれている

 

 藤原宇合高橋虫麻呂の関係については、大伴旅人山上憶良藤原不比等山部赤人と、橘諸兄田辺福麻呂の関係と同様、下級官人であった虫麻呂や、赤人、憶良、福麻呂は宇合、旅人、不比等、諸兄ら高官の庇護を受けていたと考えられている。

 宇合が常陸守であった(養老三年・719年)のでこの頃から部下となり庇護を受けたと思われる。

宇合は、神亀3年(726年)知造難波宮事に任ぜられ、天平四年(732年)西海道節度使となった。

虫麻呂は、それぞれにあたり歌(巻九 一七四七~一七五〇、一七五一・一七五二ならびに巻六 九七一・九七二)を作っている。

虫麻呂の六首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1365)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「茨城県HP」