万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2472)―

●歌は、「草枕 旅の憂へを 慰もる こともありやと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長き日に 思ひ積み来し 憂へはやみぬ(一七五七歌)」と「筑波嶺の裾みの田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな(一七五八歌)」である。

茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森万葉歌碑(高橋虫麻呂) 20230927撮影

●歌碑は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。

 

●歌をみてみよう。                          

 

一七五七・一五五八歌の題詞は、「登筑波山歌一首 幷短歌」<筑波山(つくはやま)に登る歌一首 幷せて短歌>である。

 

草枕 客之憂乎 名草漏 事毛有哉跡 筑波嶺尓 登而見者 尾花落 師付之田井尓 鴈泣毛 寒来喧奴 新治乃 鳥羽能淡海毛 秋風尓 白浪立奴 筑波嶺乃 吉久乎見者 長氣尓 念積来之 憂者息沼

      (高橋虫麻呂 巻九 一七五七)

 

≪書き下し≫草枕(くさまくら) 旅の憂(うれ)へを 慰(なぐさ)もる こともありやと 筑波嶺(つくはね)に 登りて見れば 尾花(をばな)散る 師付(しつく)の田居(たゐ)に 雁(かり)がねも 寒く来鳴(きな)きぬ 新治(にひばり)の 鳥羽(とば)の淡海(あふみ)も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長き日(け)に 思ひ積み来(こ)し 憂(うれ)へはやみぬ

 

(訳)草を枕の旅の憂い、この憂いを紛らわすよすがもあろうかと、筑波嶺に登って見はるかすと、尾花の散る師付の田んぼには、雁も飛来して寒々と鳴いている。新治の鳥羽の湖にも、秋風に白波が立っている。筑波嶺のこの光景を目にして、長い旅の日数に積りに積もっていた憂いは、跡形もなく鎮まった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)旅の憂へ:漢語の「旅愁」にあたる。他には見えない表現。(伊藤脚注)

(注)師付の田居:万葉の歌人高橋虫麻呂が歌に詠んだ場所といわれており、現在の志筑地区の北側、恋瀬川下流一帯の水田をさしたものと推定されています。この地には、昭和48年以前は鹿島やわらと称し、湿原の中央に底知れずの深井戸があったとされていますが、耕地整理によって景観がかわり、もとの深井戸があった場所から水を引いています。

この井戸にまつわる話として、日本武尊が水飲みの器を落したという内容や、鹿島の神が陣を張って炊事用にしたという内容が伝えられています。(かすみがうら市歴史博物館HP)

(注)新治:筑波山東麓の地。国府のあった石岡市の西郊。(伊藤脚注)

(注)鳥羽の淡海:東に小貝川、西に鬼怒川が流れ、その間にある市街地は北から伸びる洪積台地の末端となっています。小貝川沿岸の低地は「万葉集」に詠まれた鳥羽の淡海跡で、水田地帯となっています。主な観光スポットは、茨城百景に選定されている「砂沼」や関東最古の八幡様の「大宝八幡宮」などがあります。(いばらき観光キャンペーン推進協議会HP)

(注)よけく【良けく・善けく】:よいこと。 ※派生語。上代語。 ⇒なりたち:形容詞「よし」の上代の未然形+接尾語「く」(学研)

 

 反歌もみてみよう。

 

◆筑波嶺乃 須蘇廻乃田井尓 秋田苅 妹許将遺 黄葉手折奈

       (高橋虫麻呂 巻九 一七五八)

 

≪書き下し≫筑波嶺の裾(すそ)みの田居(たゐ)に秋田(あきた)刈る妹(いも)がり遣(や)らむ黄葉(もみち)手折(たお)らな

 

(訳)筑波嶺の山裾の田んぼで秋田を刈っているかわいい子に遣(や)るためのもみじ、そのもみじを手折ろう。(同上)

(注)すそみ【裾回・裾廻】名詞:山のふもとの周り。「すそわ」とも。 ※「み」は接尾語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)たゐ【田居】名詞:①田。たんぼ。②田のあるような田舎。(学研)

(注)妹がり:土地の女を親しんでいう。(伊藤脚注)

(注の注)いもがり【妹許】名詞:愛する妻や女性のいる所。 ※「がり」は居所および居る方向を表す接尾語。(学研)

(注)な 終助詞《接続》活用語の未然形に付く。:①〔自己の意志・願望〕…たい。…よう。②〔勧誘〕さあ…ようよ。③〔他に対する願望〕…てほしい。 ※上代語。 ⇒語法:主語の人称による判断(学研)ここでは①の意

 

 この長短歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2452)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

 筑波といえば高橋虫麻呂高橋虫麻呂といえば筑波といった塩梅である。

 

 高橋虫麻呂について、中西 進氏はその著「古代史で楽しむ万葉集」(角川ソフィア文庫)の中で、「・・・赤人や憶良が歌人としてはまったく異質であったように、虫麻呂もまた異質の歌人である。彼は地方にあって、多くその土地の歌を作っている。たとえばその東国赴任にともなって富士山の歌三首、上総・下総の歌それぞれ二首、武蔵の歌一首、そして常陸の歌十一首をつくり、西の方河内で二首、摂津で三首、住吉で二首をつくる。そのほかに宇合への贈答二首と難波下向のおりの歌六首が虫麻呂の歌のほとんどすべてで、残りは二首にすぎない。つまりほとんどの歌が大和以外の土地と関係をもち、大和における日常起居の歌は一首もない。(それぞれ地の歌番号は省略させていただきました)」と書かれている。

常陸の歌」は十一首について今一度みてみよう。

 

■一四九七歌■

 題詞は、「惜不登筑波山歌一首」<筑波山に登らざりしことを惜しむ歌一首>である。

 

◆筑波根尓 吾行利世波 霍公鳥 山妣兒令響 鳴麻志也其

       (高橋虫麻呂 巻八 一四九七)

 

≪書き下し≫筑波嶺(つくはね)に我が行けりせばほととぎす山彦(やまびこ)響(とよ)め鳴かましやそれ

 

(訳)筑波嶺に私が登って行ったとしたら、時鳥が、山をこだまさせて鳴いてくれたでしょうか。果たしてその時鳥が。(同上)

(注)せば 分類連語:もし…だったら。もし…なら。 ⇒参考 多く、下に反実仮想の助動詞「まし」をともない、事実と反する事柄や実現しそうもないことを仮定し、その上で推量する意を表す。 ⇒注意 「せば」の形には、サ変の未然形「せ」+接続助詞「ば」の場合もある。 ⇒なりたち 過去の助動詞「き」の未然形+接続助詞「ば」(学研)

(注)鳴かましやそれ:鳴いてくれたでしょうか、果たしてその時鳥が。(伊藤脚注)

(注の注)まし 助動詞特殊型《接続》活用語の未然形に付く。:①〔反実仮想〕(もし)…であったら、…であるだろうに。…であっただろう。…であるだろう。▽実際には起こり得ないことや、起こらなかったことを想像し、それに基づいて想像した事態を述べる。②〔悔恨や希望〕…であればよいのに。…であったならばよかったのに。▽実際とは異なる事態を述べたうえで、そのようにならなかったことの悔恨や、そうあればよいという希望の意を表す。③〔ためらい・不安の念〕…すればよいだろう(か)。…したものだろう(か)。…しようかしら。▽多く、「や」「いかに」などの疑問の語を伴う。④〔単なる推量・意志〕…だろう。…う(よう)。 ⇒語法:(1)未然形と已然形の「ましか」已然形の「ましか」の例「我にこそ開かせ給(たま)はましか」(『宇津保物語』)〈私に聞かせてくださればよいのに。〉(2)反実仮想の意味①の「反実仮想」とは、現在の事実に反する事柄を仮定し想像することで、「事実はそうでないのだが、もし…したならば、…だろうに。(だが、事実は…である)」という意味を表す。(3)反実仮想の表現形式反実仮想を表す形式で、条件の部分、あるいは結論の部分が省略される場合がある。前者が省略されていたなら、上に「できるなら」を、後者が省略されていたなら、「よいのになあ」を補って訳す。「この木なからましかばと覚えしか」(『徒然草』)〈この木がもしなかったら、よいのになあと思われたことであった。〉(4)中世以降の用法 中世になると①②③の用法は衰え、推量の助動詞「む」と同じ用法④となってゆく。(学研)ここでは①の意

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2449)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

■一七四五歌■

題詞は、「那賀郡曝井歌一首」<那賀(なか)の郡(こほり)の曝井(さらしゐ)の歌一首>である。

(注)那賀郡:茨城県水戸市の北方。(伊藤脚注)

(注)曝井:衣服をさらす井戸。常陸風土記に曝井の記事があり、夏、洗濯のため婦女が集まると記す。(伊藤脚注)

 

◆三栗乃 中尓向有 曝井之 不絶将通 従所尓妻毛我

       (高橋虫麻呂 巻九 一七四五)

 

≪書き下し≫三栗(みつぐり)の那賀(なか)に向へる曝井(さらしゐ)の絶えず通(かよ)はむそこに妻もが

 

(訳)那賀の村のすぐ向かいにある曝井の水、その水が絶え間なく湧くように、ひっきりなしに通いたい。そこに妻がいてくれたらよいのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)みつぐりの【三栗の】分類枕詞:栗のいがの中の三つの実のまん中の意から「中(なか)」や、地名「那賀(なか)」にかかる。(学研)

(注)上三句は序。「絶えず」を起こす。同時に「曝井」は第四句「通ふ」の目的地。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2034)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

■一七四六歌■

題詞は、「手綱濱歌一首」<手綱(たづな)の濱の歌一首>である。

(注)手綱濱:常陸北部の多珂郡。高萩市の海岸。(伊藤脚注)

 

◆遠妻四 高尓有世婆 不知十方 手綱乃濱能 尋来名益

         (高橋虫麻呂 巻九 一七四六)

 

≪書き下し≫遠妻(とほづま)し多珂(たか)にありせば知らずとも手綱(たづな)の浜の尋(たづ)ね来(き)なまし

 

(訳)遠く家に残した妻がもしこの多珂の郡にいるのであったなら、たとえ道がわからなくても、手綱の浜の名のように、私は尋ねて来るのだが。(同上)

(注)とほづま【遠妻】:遠く離れている妻。会うことのまれな妻。また七夕の織女星。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)知らずとも:たとえ道がわからなくても。(伊藤脚注)

(注)手綱(たづな)の浜:地名に「尋ね」を導く序の役割も担わせている。(伊藤脚注)

 

 

 

■一七五三・一七五四歌■

 一七五三、一七五四歌の題詞は、「検税使大伴卿登筑波山時歌一首 幷短歌」<検税使(けんせいし)大伴卿(おほとものまへつきみ)が筑波山(つくはやま)に登る時の歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

(注)検税使:諸国の正税(しょうぜい)と正税帳との照合に派遣される特使。(伊藤脚注)

(注)大伴卿:家持の父旅人であろう。(伊藤脚注)

 

◆衣手 常陸國 二並 筑波乃山乎 欲見 君来座登 熱尓 汗可伎奈氣 木根取 嘯鳴登峯上乎 公尓令見者 男神毛 許賜 女神毛 千羽日給而 時登無 雲居雨零 筑波嶺乎 清照 言借石 國之真保良乎 委曲尓 示賜者 歡登 紐之緒解而 家如 解而曽遊 打靡 春見麻之従者 夏草之 茂者雖在 今日之樂者

        (高橋虫麻呂 巻九 一七五三)

 

≪書き下し≫衣手(ころもで) 常陸(ひたち)の国の 二並(ふたなら)ぶ 筑波の山を 見まく欲ほ)り 君来ませりと 暑(あつ)けくに 汗掻(か)き投げ 木(こ)の根取り うそぶき登り 峰(を)の上(うへ)を 君に見すれば 男神(ひこかみ)も 許したまひ 女神(ひめかみ)も ちはひたまひて 時となく 雲居(くもゐ)雨降る 筑波嶺(つくはね)を さやに照らして いふかりし 国のまほらを つばらかに 示したまへば 嬉(うれ)しみと 紐(ひも)の緒(を)解きて 家(いへ)のごと 解けてぞ遊ぶ うち靡(なび)く 春見ましゆは 夏草(なつくさ)の 茂くはあれど 今日(けふ)の楽(たの)しさ

 

(訳)ここ常陸の国の雌雄並び立つ筑波の山、この山を見たいと我が君がはるばる来られたこととて、真夏の暑い時に汗を手でぬぐい払い投げて、木の根に縋(すが)って喘(あえ)ぎながら登り、頂上を我が君にお見せすると、男神もとくにお許し下さり、女神も霊威をお垂れになって、いつもは時を定めず雲がかかり雨の降るこの筑波嶺なのに、今日ははっきり照らして、気がかりにしていたこの国随一のすばらしさを隈(くま)なく見せて下さったので、嬉しさのあまり着物の紐をほどいて、家にいるううにくつろいで遊ぶ今日一日です。草なよやかな春に見るよりは、夏草が生い茂っているとはいえ、今日の楽しさはまた別格です。(同上)

(注)ころもで【衣手】分類枕詞:袖(そで)を水に浸すことから、「ひたす」と同じ音を含む地名「常陸(ひたち)」にかかる。(学研)

(注)うそぶき登り:あえぎながら登り。(伊藤脚注)

(注の注)うそぶく【嘯く】自動詞:①口をすぼめて息をつく。息をきらす。②そらとぼける。③口笛を吹く。(学研)ここでは①の意

(注)ちはひたまひて:霊力を現し下さって。(伊藤脚注)

(注の注)ちはふ【幸ふ】自動詞:霊力を現して加護する。 ※「ち」は霊力の意。(学研)

 

(注)時となく雲居雨降る筑波嶺を:いつもは時を定めず雲がかかり雨の降る筑波嶺なのに。(伊藤脚注)

(注の注)ときとなく【時と無く】分類連語:いつと決めずに。いつも。 ⇒なりたち 名詞「とき」+格助詞「と」+形容詞「なし」の連用形(学研)

(注)いふかりし:どう見えるか気がかりであった。(伊藤脚注)

(注の注)いぶかる【訝る】自動詞:気がかりに思う。知りたいと思う。 ※上代は「いふかる」。(学研)

(注)まほら:最もすぐれた所。ラは接尾語。(伊藤脚注)

(注の注)まほら 名詞:まことにすぐれたところ。まほろば。まほらま。 ※「ま」は接頭語、「ほ」はすぐれたものの意、「ら」は場所を表す接尾語。上代語。(学研)

(注)解けてぞ遊ぶ:心がくつろいで。(伊藤脚注)

(注)うちなびく【打ち靡く】分類枕詞:なびくようすから、「草」「黒髪」にかかる。また、春になると草木の葉がもえ出て盛んに茂り、なびくことから、「春」にかかる。(学研)

(注)春見ましゆは:かりに春に見るよりは。(伊藤脚注)

 

 

◆今日尓 何如将及 筑波嶺 昔人之 将来其日毛

        (高橋虫麻呂 巻九 一七五四)

 

≪書き下し≫今日(けふ)の日にいかにか及(し)かむ筑波嶺に昔の人の来(き)けむその日も

 

(訳)今日のこの楽しさにどうして及ぼう。ここ筑波嶺に昔の人がやって来たというその日の楽しさだって。(同上)

(注)しく【如く・及く・若く】自動詞:①追いつく。②匹敵する。及ぶ。(学研)ここでは②の意

(注)むかしのひと【昔の人】分類連語:①過去の時代の人。古人(こじん)。②亡くなった人。故人(こじん)。③昔、なれ親しんだ人。昔なじみ。(学研)ここでは③の意

 

 

 この長短歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2469)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

■一七五九・一七六〇歌■

一七五九・一七六〇歌の題詞は、「登筑波嶺為嬥歌會日作歌一首 幷短歌」<筑波嶺(つくはね)に登りて嬥歌会(かがひ)為(す)る日に作る歌一首 幷(あは)せえ短歌>である。

(注)嬥歌>歌垣【うたがき】:古代の風習で,春秋に多数の男女が飲食を携えて山の高みや市などに集い,歌舞を行ったり,求愛して性を解放したりする行事。東国の方言で【かがい】といった。万葉集常陸(ひたち)国風土記に見え,常陸筑波山や大和の海柘榴市(つばいち)で行われたものが名高い。貴族の間で行われるようになると野趣を失い,踏歌(とうか)がこれに代わった。(コトバンク 株式会社平凡社百科事典マイペディア)

 

◆鷲住 筑波乃山之 裳羽服津乃 其津乃上尓 率而 未通女壮士之 徃集 加賀布嬥歌尓 他妻尓 吾毛交牟 吾妻尓 他毛言問 此山乎 牛掃神之 従来 不禁行事叙 今日耳者 目串毛勿見 事毛咎莫 <嬥歌者東俗語曰賀我比]>

        (高橋虫麻呂 巻九 一七五九)

 

≪書き下し≫鷲(わし)の棲(す)む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上(うへ)に 率(あども)ひて 娘子(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集(つど)ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻(ひとづま)に 我(わ)も交(まじ)はらむ 我(わ)が妻に 人も言(こと)とへ この山を うしはく神の 昔より 禁(いさ)めぬわざぞ 今日(けふ)のみは めぐしもな見そ 事もとがむな <嬥歌は、東の俗語(くにひとのことば)には「かがひ」といふ>

 

(訳)鷲の巣くう筑波に山中(やまなか)の裳羽服津(もはきつ)、その津のあたりに、声掛け合って誘い合わせた若い男女が集まって来て唱(うた)って踊るこのかがいの晩には、人妻におれも交わろう。おれの女房に人も言い寄るがよい。この山を支配する神様が、遠い昔からお許し下さっている行事なのだ。今日一日だけは、あわれだなと思って見て下さるな。何をしてもとがめ立てして下さるな。(同上)

(注)鷲(わし)の棲(す)む:恐しい深山を表すための形容。(伊藤脚注)

(注)裳羽服津:どこか不明。常陸風土記には東峰女山の側の泉に集まったと記す。(伊藤脚注)

(注)あどもふ【率ふ】他動詞:ひきつれる。 ※上代語。(学研)

(注)かがふ【嬥歌ふ】自動詞:男女が集まって飲食し、踊り歌う。(学研)

(注)うしはく【領く】他動詞:支配する。領有する。 ※上代語。(学研)

(注)めぐし【愛し・愍し】形容詞:①いたわしい。かわいそうだ。②切ないほどかわいい。いとおしい。 ※上代語。(学研)

 

男神尓 雲立登 斯具礼零 沾通友 吾将反哉

        (高橋虫麻呂 巻九 一七六〇)

 

≪書き下し≫男神(ひこかみ)に雲立ち上(のぼ)りしぐれ降り濡(ぬ)れ通るとも我(わ)れ帰らめや

 

(訳)男神の嶺(みね)に雲が湧き上がってしぐれが降り、びしょ濡(ぬ)れになろうとも、楽しみ半ばで帰ったりするものか。(同上)

 

 この長短歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2453)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

■一七八〇・一七八一歌■

題詞は、「鹿嶋郡苅野橋別大伴卿歌一首 幷短歌」<鹿島(かしま)の郡(こほり)苅野(かるの)橋にして、大伴卿と別るる歌一首 幷(あは)せて短歌>

(注)鹿島の郡:茨城県鉾田市鹿嶋市神栖市一帯。(伊藤脚注)

(注)苅野:鹿島神宮南の神之池(ごうのいけ)から出た川が利根川に注ぐあたりか。(伊藤脚注)

(注)大伴卿:大伴旅人であろう。(伊藤脚注)

 

◆牡牛乃 三宅之滷尓 指向 鹿嶋之埼尓 狭丹塗之 小船儲 玉纒之 小梶繁貫 夕塩之 満乃登等美尓 三船子呼 阿騰母比立而 喚立而 三船出者 濱毛勢尓 後奈美居而 反側 戀香裳将居 足垂之 泣耳八将哭 海上之 其津乎指而 君之己藝歸者

        (高橋虫麻呂 巻九 一七八〇)

 

≪書き下し≫牡牛(ことひうし)の 三宅(みやけ)の潟(かた)に さし向(むか)ふ 鹿島(かしま)の崎(さき)に さ丹(に)塗りの 小舟(をぶね)を設(ま)け 玉巻きの 小楫(をかじ)繁貫(しじぬ)き 夕潮(ゆふしほ)の 満ちのとどみに 御船子(みふなこ)を 率(あども)ひたてて 呼びたてて 御船出(い)でなば 浜も狭(せ)に 後(おく)れ並(な)み居(ゐ)て 臥(こ)いまろび 恋ひかも居(を)らむ 足すりし 音(ね)のみや泣かむ 海上(うなかみ)の その津を指(さ)して 君が漕(こ)ぎ去(い)なば

 

(訳)牡牛の三宅の潟に向かい合う鹿島の崎で、赤く塗った御船を準備し、玉を飾った櫂(かい)を舷(ふなばた)一面に貫き並べ、夕潮が満ちきった時に、漕ぎ手たちを駆り集め、掛け声立てて御船が漕ぎ出して行ったならば、私どもあとに残る者は、鹿島の浜も狭まるばかりにひしめき合って、ころげ廻(まわ)っておあとを恋い慕うことでしょう。地団駄踏んでただ泣き叫ぶことでしょう。お隣海上の郡の、その三宅の港をさしてあなた様が漕ぎ別れて行ってしまったならば。(同上)

(注)牡牛の:「三宅(銚子市三宅町)」の枕詞。力強い雄牛で貢物を運ぶ屯倉(みやけ)の意。(伊藤脚注)

(注)鹿島の崎:茨城県神栖町。(伊藤脚注)

(注)さ丹(に)塗りの:以下四句、相手の船の美化。(伊藤脚注)

(注)しじぬく【繁貫く】他動詞:(船のかいなどを)たくさん取り付ける。(学研)

(注)満ちのとどみ:満潮の極限。(伊藤脚注)

(注)御船子:船の漕ぎ手たち。(伊藤脚注)

(注)こいまろぶ【臥い転ぶ】自動詞:ころげ回る。身もだえてころがる。(学研)

(注)臥いまろび:以下四句、去り行く者を追い求めて悲しむ気持ち。(伊藤脚注)

(注)海上(うなかみ):千葉県銚子市付近の郡名。(伊藤脚注)

 

◆海津路乃 名木名六時毛 渡七六 加九多都波二 船出可為八

       (高橋虫麻呂 巻九 一七八一)

 

≪書き下し≫海つ道(ぢ)のなぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出(ふなで)すべしや

 

(訳)せめて海路のおだやかな時にでもお渡りになればよいのに。こんなにひどく立つ波の中を船出などなさるべきではないでしょう。(同上)

(注)船出すべしや:無事を祈る長歌に対し、これは引留め歌。(伊藤脚注)

 

 中西 進氏は前著のなかで、「(虫麻呂は)よく伝説歌人だといわれる。・・・彼にとって伝説の世界はもうひとつの現実の世界であった。・・・彼における伝説とは・・・現実と対置した非現実だったと思われる。・・・(一五五九、一七六〇歌について)筑波山の歌はここに伝わる嬥歌会(かがい)を歌って・・・いる。これを事実と解すると卑俗な歌になってしまう。・・・これはひとつの習俗の伝承を詠んだにすぎないのである。・・・虫麻呂の世界が多く夢想の非現実であるにもかかわらず、その描写は精細をきわめる。・・・(この)精細さは、非現実が確かな現実だったからであり、非現実を現実としてそこに住んでいたのが虫麻呂だったといえる。虫麻呂にとって、現実など確かではないのだ。・・・虫麻呂は現実のうつろな不安の中に、不安定な情緒をいだいて非現実の中にはいっていった。ではこの原郷喪失はなぜ生じたのか。わたしはそこに卑官の桎梏(しっこく)をのがれたかった虫麻呂の姿を見る。おのが身の栄達など望み得べくもない官位、さりとて五斗米(ごとべい)を潔しとせず、役人生活を捨てることもかなわない己れ。」と書かれている。

 

 万葉集に切り込む太刀筋を学んだような気がする。切り込む前に怖気ている己の姿が・・・。

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著(角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「かすみがうら市歴史博物館HP」

★「いばらき観光キャンペーン推進協議会HP」