万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2764)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―

●歌は、「塩津山打ち越え行けば我が乗れる馬ぞつまづく家恋ふらしも(笠金村 3-365)」である。

 

【塩津山】

 「笠金村(巻三‐三六五)(歌は省略)近江から越前に越えるのには大要三通りがある。一は湖北塩津から沓掛(くつかけ)を経て新道野(しんどうの)越をして疋田(ひきだ)(敦賀市)に出る塩津街道で、これは現在国道八号線・・・である。古道は沓掛の北西から追分・疋田に出る深坂(ふかさか)越の道らしい・・・二は海津(かいづ)から山中越して追分・疋田にでる西近江路である。三は木之本・柳が瀬から橡(とち)ノ木峠を越えて今庄(いまじょう)に出る北国街道だがこれは中世以後のものらしい。・・・この歌の山越は一の深坂越の道と思われる。塩津山はこの塩津北西の国境線の山地をさすものであろう。冬季には雪の深いところだし、『遠き山関も越え来(き)ぬ』その他の歌をみても、いよいよ越路に入る難関への感慨は想像を越えるものがあっただろう。馬がつまづいても“家郷では自分を恋うているのではなかろうか”と山中望郷の思いに駆られるのだ。万葉では人を夢にみても先方が思うから夢にあらわれるという考え方(巻四‐四九〇)だから、馬のつまづくのは家人が思っているからと解すべきで馬が家を恋うのではない。類想の歌は他にもある。」(「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)

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 巻三 三六五歌を三六四歌とともにみていこう。

■■巻三 三六四・三六五歌■■

題詞は、「笠朝臣金村塩津山作歌二首」<笠朝臣金村、塩津山(しほつやま)にして作る歌二首>である。

(注)塩津山:滋賀県伊香郡西浅井町塩津浜の北の山。ここを越えると越の国。(伊藤脚注)

 

■巻三 三六四歌■

◆大夫之 弓上振起 射都流矢乎 後将見人者 語継金

       (笠金村 巻三 三六四)

 

≪書き下し≫ますらをの弓末(ゆずゑ)振り起し射(い)つる矢を後(のち)見む人は語(かた)り継(つ)ぐがね

 

(訳)ますらおが弓末を振り立てて射立てた矢なのだ、この矢をのちに見る人は誰もかれも語り継ぐよすがとなるように。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)弓末振り起し:力強く弓を射る様。(伊藤脚注)

(注の注)ゆずゑ 【弓末】名詞:弓の上部。「ゆすゑ」「ゆんずゑ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)射つる矢:無事を祈って峠の神木に射立てた矢。(伊藤脚注)

(注)がね:必ず語り継ぐように。ガネは希望的推測を示す終助詞。(伊藤脚注)

(注の注)がね 接続助詞《接続》動詞の連体形に付く。:①〔理由〕…であるから。…だろうから。②〔目的〕…ために。…ように。 ⇒参考:「がね」は文末に置かれるので、「終助詞」という説もあるが、倒置と考えられるので、接続助詞とする説に従う。上代語。(学研)

 

 

 

■巻三 三六五歌■

◆塩津山 打越去者 我乗有 馬曽爪突 家戀良霜

       (笠金村 巻三 三六五)

 

≪書き下し≫塩津山打ち越え行けば我(あ)が乗れる馬ぞつまづく家(いへ)恋ふらしも

 

(訳)塩津山、この山を一同馬鞭(むち)打って越えて行くと、私の乗っている馬がつまずいた。家の者が私に恋焦がれているらしい。(同上)

(注)馬ぞつまづく:馬がつまずくのは家人が自分を恋しく思っている証とされた。(伊藤脚注)

 

 

 

 

 巻四 四九〇歌をみてみよう。

■巻四 四九〇歌■

◆真野之浦乃 与騰乃継橋 情由毛 思哉妹之 伊目尓之所見

  

 

≪書き下し≫真野(まの)の浦の淀(よど)の継橋(つぎはし)心ゆも思へや妹(いも)が夢(いめ)にし見ゆる

 

(訳)真野の浦の淀みにかかる継橋、その橋に切れ目がないように、切れ目なく心底私のことを思ってくださっているからなのか、あなたの顔が夢に見えます。(同上)

(注)真野の浦:神戸市長田区の海岸。(伊藤脚注)

(注)継橋:水中に打った杭に板を継ぎ渡した橋。上二句は序。「継ぎて」の意を下三句に及ぼす。(伊藤脚注)

(注の注)つぎはし【継ぎ橋】名詞:水中に柱を立て、板を何枚か継いで渡した橋。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1111)四九一歌とともに紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 犬養著の解説の近江から越前に越える三ルートについては、同著の下記の地図を参考にしてください。

 

「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)より引用させていただきました。



 

 

 

 

 

犬養著の解説にある「遠き山関も越え来ぬ」は、中臣宅守の歌(巻十五 三七三四)である。みてみよう。

■巻十五 三七三四歌■

◆等保伎山 世伎毛故要伎奴 伊麻左良尓 安布倍伎与之能 奈伎我佐夫之佐 <一云 左必之佐>

     (中臣宅守 巻十五 三七三四)

 

≪書き下し≫遠き山関(せき)も越え来(き)ぬ今さらに逢ふべきよしのなきが寂しさ <一には「さびしさ」といふ>

 

(訳)遠い山々、そして関所さえも越えて私はやって来た。今となってはもう、あなたに逢う手立てがないのがさびしい。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1649)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 

紫式部は長徳2年(996)9月に父の藤原為時越前国守赴任時に随行し、深坂古道を通ったといわれている。

この時に紫式部が詠んだ歌「知りぬらむ ゆききにならす 塩津山 よにふる道は からきものぞと」と万葉集巻十一 二七四七歌の歌碑は、長浜市西浅井町 塩津北口バス停近くに建てられている。これについては、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その401)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

 

長浜市西浅井町 塩津北口バス停近く紫式部の歌と巻十一 二七四七歌の歌碑 20200129撮影



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」