万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その452)―藤井寺市市岡 藤井寺市役所―万葉集 巻六 一〇一二 

●歌は、「春さればををりにををりうぐひすの鳴く我が山斎ぞやまず通はせ」である。

 

●歌碑は、藤井寺市市岡 藤井寺市役所にある。先達のブログで藤井寺駅北出口前にあると記されていたので、駅前のコインパークに車を止め、北口ロータリーを調べるも見当たらなかった。念のためと、駅周辺を丹念に探す。踏切を渡り南口まで足を伸ばす。しかし見つけることができなかった。再度先達のブログを確認する。歌碑は、藤井寺市役所に移動されているとの書き込みを見つける。駐車場に戻る途中で、久しぶりにたこ焼きを買った。乙な味である。

 この歌碑も積み木細工型であった。

 

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藤井寺市市岡 藤井寺市役所万葉歌碑(作者未詳)


●歌をみていこう。

 

◆春去者 乎呼理尓乎呼理 鸎之 鳴吾嶋曽 不息通為

               (作者未詳 巻六 一〇一二)

 

≪書き下し≫春さればををりにををりうぐひすの鳴く我が山斎ぞやまず通はせ

 

(訳)春ともなれば、枝も撓むばかりに梅の花が咲き乱れ、鶯が来て鳴く我が家の庭園です。その時になったら、欠かさずに通ってください。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)ををり【撓り】名詞:花がたくさん咲くなどして、枝がたわみ曲がること(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)しま【島】名詞:①周りを水で囲まれた陸地。②(水上にいて眺めた)水辺の土地。

③庭の泉水の中にある築山(つきやま)。また、泉水・築山のある庭園。 ※「山斎」とも書く。(学研) ここでは③の意

 

題詞は、「冬十二月十二日歌儛所之諸王臣子等集葛井連廣成家宴歌二首 

比来古儛盛興 古歳漸晩 理宜共盡古情同唱古歌 故擬此趣輙獻古曲二節 風流意氣之士儻有此集之中 争發念心ゝ和古體」<冬の十二月の十二日に、歌儛所(うたまひどころ)の諸王(おほきみたち)・臣子等(おみこのたち)、葛井連廣成(ふぢゐのむらじひろなり)が家に集(つど)ひて宴(うたげ)する歌二首

比来(このころ)、古儛(こぶ)盛(さかり)に興(おこ)りて、古歳(こさい)漸(やくやく)に晩(く)れぬ。理(ことはり)に、ともに古情(こじやう)を尽(つく)し、同じく古歌を唱(うた)ふべし。故(ゆゑ)に、この趣(おもぶき)に擬(なずら)へて、すなはち古曲(こきょく)二節を獻(たてまつ)る。風流(ふうりう)意気(いき)の士、たまさかにこの集(つど)ひの中にあらば、争(いそ)ひて念(おもひ)を発(おこ)し、心々(こころこころ)に古体(こたい)に和(わ)せよ。>である。

(注)歌儛所(うたまひどころ):「うたまいのつかさ」とも。古代宮廷音楽を掌る官司。万葉集巻6に「天平8(736)年冬12月12日、歌儛所(うたまいどころ)の諸王臣子たちが、葛井広成(ふじいのひろなり)の家に集まって宴を催した」時の歌を伝える。その序に「このころ古い舞がさかんになってきた。共に古風な情を尽くし、古歌を唱うべきである。この古曲2篇に唱和をしてもらいたいと2首の歌を詠んだ」とある(6-1011~12)。歌儛所の名は、万葉集のこの1例だけで他の文献には見えない。歌儛所が宮廷音楽を司る機関として、令制の雅楽寮と無縁ではあり得ないが、その関係については同一機関とする説、雅楽寮の一部とする説、臨時に設けられた機関とする説などがあって、必ずしも一定していない。雅楽寮治部省の管轄下にあって、内外の楽舞の整理や管理、楽人の支配、楽舞の教習等を司った。頭(かみ)以下四等官制に基づく官人のほかに、楽人として歌師、儛師、笛師、唐楽師、高麗楽師、百済楽師、新羅楽師、伎楽師、腰鼓師が置かれていた。その基本的体制は「雅曲正儛(がきょくせいぶ)」(唐楽、高麗楽以下の楽舞を掌る東洋的音楽部)と「雑楽雑舞(ぞうがくそうぶ)」(地方の風俗歌、五節舞、田舞等、日本在来の歌舞を掌る日本音楽部)とに分かれていた。折口信夫は、この日本音楽部とも称すべき部署が歌儛所に相当するといい、「此役所(雅楽寮)の主眼は外国音楽にあつたので、日本音楽部、即、大歌所は付属のやうな形であつた」「一つ処に両部を備へて居た為に、大歌所のことをも歌儛所で表すことの出来たものらしい」(「万葉集のなり立ち」)と説いた。これに対して林屋辰三郎は、東洋音楽を重視する気運の高まりのなか、日本的歌舞に郷愁を感ずる人々が、日本音楽部の独立を目的として宮中に臨時に設けられたものが歌儛所であったという(「古代芸能とその継承」)。また、荻美津夫は、地方に伝習されていた歌舞や風俗の歌舞を余興的に教習するための、雅楽寮とは別個の準公的な常設の機関とする(「古代音楽制度の変遷」)。万葉集の「古儛盛(こぶさか)りに興(おこ)り」とは、天平初年ころの古舞復興をいうのであろう(例えば、天平6年朱雀門下の歌垣に奏された難波曲(なにわぶり)などの古舞)。歌儛所にはそうした古典的な歌舞音曲が集められ、伝習、教習されていたのであろう。後の大歌所に直結するような機能も既に有していたと見るべきであろう。(國學院大學デジタル・ミュージアム 万葉神事語辞典)

(注)古儛:日本古来の舞

(注)ことわりなり【理なり】形容動詞:もっともだ。道理だ。当然だ。(学研)

 

 

古曲(こきょく)二節」のもう一首をみてみよう。

 

◆我屋戸之 梅咲有跡 告遣者 来云似有  去十方吉

               (作者未詳 巻六 一〇一一)

 

≪書き下し≫我がやどの梅咲きたりと告げ遣(や)らば来(こ)と言ふに似たり散りぬともよし

 

(訳)我が家の庭の梅が咲いたと知らせてやったら、お出で下さいと誘うようなものだ。梅の花なんぞ散ってしまってもかまいはしな。(同上)

 

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藤井寺市役所

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「國學院大學デジタル・ミュージアム 万葉神事語辞典」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」