万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1058)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(18)―万葉集 巻十 一八七九

●歌は、「春日野に煙立つ見ゆ娘子らし春野のうはぎ摘みて煮らしも」である。

 

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(18)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(18)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は「詠煙」である。

 

◆春日野尓 煙立所見 ▼嬬等四 春野之菟芽子 採而▽良思文

               (作者未詳 巻十 一八七九)

        ※▼は、「女」+「感」、「『女』+『感』+嬬」=「をとめ」

      ※※▽は、「者」の下に「火」である。「煮る」である。

 

≪書き下し≫春日野(かすがの)に煙立つ見(み)ゆ娘子(をとめ)らし春野(はるの)のうはぎ摘(つ)みて煮(に)らしも

 

(訳)春日野に今しも煙が立ち上っている、おとめたちが春の野のよめなを摘んで煮ているらしい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)うはぎ:よめなの古名。

(注)らし [助動]活用語の終止形、ラ変型活用語の連体形に付く。:①客観的な根拠・理由に基づいて、ある事態を推量する意を表す。…らしい。…に違いない。② 根拠や理由は示されていないが、確信をもってある事態の原因・理由を推量する意を表す。…に違いない。

[補説] 語源については「あ(有)るらし」「あ(有)らし」の音変化説などがある。奈良時代には盛んに用いられ、平安時代には①の用法が和歌にみられるが、それ以後はしだいに衰えて、鎌倉時代には用いられなくなった。連体形・已然形は係り結びの用法のみで、また奈良時代には「こそ」の結びとして「らしき」が用いられた。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 この歌については、春日野の位置や春日野にまつわる歌と共にブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1029)で紹介している。

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 「春の野で若菜を摘む娘子」というと、雄略天皇万葉集の巻頭歌(巻一 一歌)が思い起こされる。歌をみてみよう。

 

 

◆籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家告閑 名告紗根  虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母

                   (雄略天皇 巻一 一)

 

≪書き下し≫籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串(ぶくし)持ちこの岡(をか)に 菜(な)摘(つ)ます子 家告(の)れせ 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居(を)れ しきなべて 我れこそ居(を)れ 我れこそば 告(の)らめ 家をも名をも

 

(訳)おお、籠(かご)よ、立派な籠を持って、おお。堀串(ふくし)よ、立派な堀串を持って、ここわたしの岡で菜を摘んでおいでの娘さん、あなたの家をおっしゃい、名前をおっしゃいな。霊威満ち溢れるこの大和の国は、隅々までこの私が平らげているのだ。果てしもなくこのわたしが治めているのだ。が、わたしの方から先にうち明けようか、家も名も。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)もよ 分類連語:ねえ。ああ…よ。▽強い感動・詠嘆を表す。 ※上代語。 ⇒なりたち 係助詞「も」+間投助詞「よ」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)み- 【御】接頭語:名詞に付いて尊敬の意を表す。古くは神・天皇に関するものにいうことが多い。「み明かし」「み軍(いくさ)」「み門(みかど)」「み子」(学研)

(注の注)持ち物を通して娘子をほめている。

(注)ふくし【掘串】名詞:土を掘る道具。竹や木の先端をとがらせて作る。 ※後に「ふぐし」とも。(学研)

(注)菜摘ます:「菜摘む」の尊敬語

(注)のらす【告らす・宣らす】分類連語:おっしゃる。▽「告(の)る」の尊敬語。 ⇒なりたち 動詞「の(告)る」の未然形+尊敬の助動詞「す」(学研)

(注の注)家や名を告げるのは、結婚の承諾を意味する。

(注)そらみつ 分類枕詞:国名の「大和」にかかる。語義・かかる理由未詳。「そらにみつ」とも。(学研)

 (注)おしなぶ 他動詞:(一)【押し靡ぶ】押しなびかせる。「おしなむ」とも。(二)【押し並ぶ】①すべて同じように行きわたる。②並である。普通である。 ※(二)の「おし」は接頭語。(学研)

(注)しきなぶ【敷き並ぶ】自動詞:すべてにわたって治める。一帯を統治する。(学研)

(注)ます【坐す・座す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでである。おありである。▽「あり」の尊敬語。②いらっしゃる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(学研)

(注の注)原文は「吾己曽座」となっているが、伊藤氏は「我れこそ居(を)れ」に改めておられる。

(注)こそ 係助詞:《接続》体言、活用語の連用形・連体形、副詞・助詞などに付く。上代では已然形にも付く。①〔上に付く語を強く指示し、文意を強調する〕ほかの事・物・人ではなく、その事・物・人。②〔「こそ…已然形」の句の形で、強調逆接確定条件〕…は…だけれど。…こそ…けれども。 参考⇒ばこそ・もこそ・あらばこそ

 

 雄略天皇のこの歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その95改)」で紹介している。

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 この歌は、雄略天皇が若菜を摘んでいる乙女に求婚する歌である。

 上野 誠氏は、その著「万葉集講義 最古の歌集の素顔」(中公新書)の中で、「雄略天皇といえば、五世紀後半の天皇であり『万葉集』が編纂された八世紀中葉の人びとから見れば、三百年も前の天皇ということになる。さすれば、奈良時代においてもうすでに伝説の天皇といってよい。」「雄略天皇舒明天皇とでは、その在位期間が二百年もかけ離れており、雄略天皇から舒明天皇までの間の歌は、きわめて少ない。さすれば、雄略天皇の御製歌(おおみうた)は、権威づけのためにここに置かれた、と多くの万葉学徒は、考えている。したがって、一番歌は、雄略天皇の御製歌として伝わっていた歌、ないしは雄略天皇の歌としてここに据えられた歌と見てよいだろう。」と書かれている。

 犬養 孝氏は、その著「万葉の人びと」(新潮文庫)の中で、「師吉名倍手>吾己曽座(しきなべて我こそ座(ま)せ)」の箇所について、「これを直訳したら、全部治めて私がいらっしゃるのだよ、ということになる。おかしいでしょう? この「座(ま)せ」という敬語が使ってあるところに、この歌が雄略天皇ご自身の歌というよりも、そうではなく、人びとがそういう歌として伝えている、その証拠がここにあると思うのです。」と書かれている。

 

 巻二の巻頭歌についても仁徳天皇の磐姫皇后の歌とされる歌を配し(部立は相聞)歴史的重みをつけているといえるのである。

 磐姫皇后の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1034から1037)」で紹介している。

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上野 誠氏は、前掲の「万葉集講義 最古の歌集の素顔」(中公新書)の中で、「『古事記』や『日本書記』にとっていちばん大切な事柄は、『帝紀』を後世に残すことであった。帝紀とは、皇帝や天皇の言行録ともいうべきものであり、皇帝や天皇が、いつ、どこで、何をしたか、ということの記録である。『日本書記』が。天皇と皇族の事蹟(じせき)を集めた歴史書といえるなら、『万葉集』巻一と二は。歌によって振り返る歴史書といえるだろう。ただし、それは、天皇と皇族を中心とした歴史でしかない。」と述べられている。

 

これまで以上に、歌の背景にある歴史、風土など歌を原点とした時間軸、空間軸の広がりを読み解いていきたい。大きな課題である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「万葉集講義 最古の歌集の素顔」 上野 誠 著 (中公新書

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志 隆光 著 (東京大学出版会

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉