●歌は、「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」である。
●歌碑は、島根県益田市 県立万葉公園人麻呂展望広場(1)にある。
10月12日から13日の2泊3日で島根県の万葉歌碑を巡ってきた。
12日は、益田市高津町の県立万葉公園と柿本神社である。益田市内泊。
13日は、江津市、美郷町、三瓶町、大田市の歌碑を巡り、鳥取県米子市泊である。
京都の自宅を午前3時に出発、約500km、休憩を入れて8時間のドライブである。少々無茶な計画かもしれないが、多くの万葉歌碑に巡り逢いたいという一心である。
11時ごろに県立万葉公園に到着。まず公園管理センターに行き、「島根県立万葉公園 人麻呂展望広場 『柿本人麻呂の歌の世界にふれる庭』」というパンフレットをもらう。人麻呂広場の歌碑の位置情報や歌の解説が載っている。車に戻りパンフレットを見ながら作戦会議である。
すると、突然土砂降り。日頃の行いが悪いのか万葉歌碑巡りは雨にたたられる。予報では、雨だったのでおまじないにと長靴を買ってはいたが。天雲レーダーをみるとなんとかしのげそうな様相なので、はやる気持ちを抑えながら、途中の道の駅で仕入れて来たお弁当で早めの昼食をとる。
長靴効果か、雨は上がり、その後は何とか持ちそうな雰囲気に。
さあ、人麻呂展望広場へ!
入口の石段を上る。広場が歓迎してくれている。歌碑がこっちですよ、と手を振ってくれる。
記念すべき、島根県第1号の万葉歌碑をカメラに収める。
●歌をみていこう。第1号は人麻呂の歌なのに人麻呂の歌でなかった。
◆足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾乃 長永夜乎 一鴨将宿
(柿本人麻呂? 巻十一 [二八一三] 二八〇二の或る本の歌)
≪書き下し≫あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々(ながなが)し夜(よ)をひとりかも寝む
(訳)山鳥の尾の垂れ下がった長い尾のように、何とも長たらしいこの夜なのに、独りわびしく寝ることになるのか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)しだりを【し垂り尾・垂り尾】名詞:長く垂れ下がっている尾。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)上三句は序。「長々し」を起こす。
この歌の題詞は、(二八〇二歌の)「或る本の歌に曰く」とある。
二八〇二歌をみてみよう。
(作者未詳 巻十一 二八〇二)
≪書き下し≫思へども思ひもかねつあしひきの山鳥(やまどり)の尾(を)の長きこの夜(よ)を
(訳)焦がれまい焦がれまいと思うけれども、やっぱり恋しく思わずにいられない。あの山鳥の尾のように長い長い独り寝のこの一夜は。(同上)
(注)思へども思ひもかねつ:焦がれまいと思っても、思わないでいられぬ。
(注)「あしひきの山鳥の尾の」は序。「長き」を起こす。
万葉集には、「柿本人麻呂歌集」と記された歌群が収録されている。「柿本人麻呂歌集」は、常に、どれが人麻呂自身の歌でどれが違うかという問題を常にはらんでいる。
あきらかに、二八〇二歌ならびに「或る本の歌」は「柿本人麻呂歌集」の歌ではない。作者未詳歌である。
巻十一の構成をみてみよう。
旋頭歌 二三五一~二三六二歌 右十二首柿本朝臣人麻呂之歌集出
二三六三~二三六七歌 右五首古歌集中出
正述心緒 二三六八~二四一四歌
寄物陳思 二四一五~二五〇七歌
問答 二五〇八~二五一六歌 以前一百四十九首柿本朝臣人麻呂之歌集出
正述心緒 二五一七~二六一八歌
寄物陳思 二六一九~二八〇七歌
問答 二八〇八~二八二七歌
譬喩 二八二八~二八四〇歌
二八〇二歌は、後段の「寄物陳思」に含まれている。二八〇二ならびに「或る本の歌」は柿本朝臣人麻呂歌集の歌でもない「作者未詳歌」なのである。
このことは、万葉集は「柿本人麻呂歌集」を核にして拡大しているのである。
公園管理センターでいただいたパンフレット「島根県立万葉公園 人麻呂展望広場 『柿本人麻呂の歌の世界にふれる庭』」には、「小倉百人一首に選ばれた歌(11・二八〇二)」として紹介されている。作者は柿本人麻呂となっている。
なぜ「柿本人麻呂の歌」となったかについて調べてみた。
高岡市万葉歴史館HPの「人麻呂の代表作は?」に次の記載があった。長いが転載させていただきます。
「・・・藤原定家が選ぶ『百人一首』のなかに、人麻呂の歌が含まれている。
あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む
人麻呂と言えば、この歌をまず思い浮かべる人もいるにちがいない。しかし、この歌は『万葉集』の歌ではあるが、じつは人麻呂作ではない。巻十一にある作者未詳歌(2802番歌の或本歌)である。それでは、いつからこの歌が人麻呂作と誤解されるようになったのか。おそらく藤原公任という平安時代中期に活躍した歌人が、そのことと深くかかわっていると考えられている。
公任は、和歌に関わる著書を多く残した歌人である。その公任が、歌のうまい歌人を36人選んで『三十六人撰』を作ったのがきっかけとなって、「三十六歌仙」が生まれた。もちろん人麻呂は紀貫之とともにその筆頭に位置付けられ、代表作としてつぎの10首が選ばれている。
1 昨日こそ年は暮れしか春霞春日の山にはや立ちにけり
2 明日からは若菜摘まむと片岡の朝の原は今日ぞ焼くめる
3 梅の花それとも見えずひさかたの天霧る雪のなべて降れれば
4 ほととぎす鳴くや五月の短夜もひとりし寝れば明かしかねつも
5 飛鳥川もみぢ葉流る葛城の山の秋風吹きぞ頻くらし
6 ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
7 頼めつつ来ぬ夜あまたになりぬれば待たじと思ふぞ待つにまされる
8 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む
9 我妹子が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき
10 もののふの八十宇治川の網代木にただよふ波の行方知らずも
しかし、このうちで、『万葉集』に「人麻呂作」と明記されているのは10の歌だけである。ほかに4首(1・4・5・8)の『万葉集』歌があるが、いずれも作者未詳歌で、人麻呂の歌ではない。さらに、3・6は『古今和歌集』に、9は『大和物語』にあり、『万葉集』の歌ではない。・・・」
高岡市万葉歴史館HPの記述に乗っかって自分なりに調べてみた。
◆1は、巻十 一八四三歌である。部立と題詞は、「春雑歌・詠霞」である。万葉集の歌ではあるが、柿本人麻呂歌集の歌でもない。
◆2は、拾遺和歌集の「柿本人麻呂」の歌である。万葉集にはない。
◆3は、古今和歌集の「柿本人麻呂」の歌である。万葉集にはない。万葉集には類歌(?)「梅の花それとも見えず降る雪のいちしろけむな間使遣らば(巻十 二三四四歌)があるが、これも柿本人麻呂歌集の歌ではない。
◆4は、巻十 一九八一歌である。部立と題詞は、「夏相聞・寄鳥」である。万葉集の歌ではあるが、柿本人麻呂歌集の歌でもない。
◆5は、巻十 二二一〇歌を元歌としている。部立と題詞は「秋雑歌・詠黄葉」である。元歌は、柿本人麻呂歌集の歌でもない。元歌は「明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし(二二一〇歌)」である。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(月読橋番外)」で紹介している。
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◆6は、古今和歌集の「柿本人麻呂」の歌である。万葉集にはない。
◆7は、拾遺和歌集の「柿本人麻呂」の歌である。万葉集にはない。
◆8は、上述の通り、巻十一 二八〇二歌の「或る本の歌」である。万葉集の歌ではあるが、柿本人麻呂歌集の歌でもない。
◆9は、大和物語の歌で「柿本人麻呂」の歌であるらしい。清少納言もふれている。万葉集にはない。
◆10は、巻三 二六四歌である。題詞は、「柿本朝臣人麻呂、近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌一首」である。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その229)」で紹介している。
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百人一首で、「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」は柿本人麻呂之歌と頭に刻み込まれていたが、万葉集では作者未詳歌であることを知り勉強不足に恥じ入った。こういうことも含め幅広く挑戦していくべしとあらためて万葉集に教えられたのである。
しかし島根県益田市県立万葉公園人麻呂広場での第一号の歌でこれほどまでの試練を与えられるとは・・・。
だから面白いのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会)
★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「島根県立万葉公園 人麻呂展望広場 『柿本人麻呂の歌の世界にふれる庭』」
★「高岡市万葉歴史館HP」