万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1348表①)―小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(3の表①)―万葉集 巻十七 三九五七

●歌は、「・・・はしきよし汝弟の命なにしかも時しはあらむをはだすすき穂に出づる秋の萩の花・・・」である。

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小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(3の表①)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(3の表①)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「哀傷長逝之弟歌一首 幷せて短歌」<長逝(ちやうせい)せる弟(おとひと)を哀傷(かな)しぶる歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

(注)弟:家持の弟。書持。

 

◆安麻射加流 比奈乎佐米尓等 大王能 麻氣乃麻尓末尓 出而許之 和礼乎於久流登 青丹余之 奈良夜麻須疑氐 泉河 伎欲吉可波良尓 馬駐 和可礼之時尓 好去而 安礼可敝里許牟 平久 伊波比氐待登 可多良比氐 許之比乃伎波美 多麻保許能 道乎多騰保美 山河能 敝奈里氐安礼婆 孤悲之家口 氣奈我枳物能乎 見麻久保里 念間尓 多麻豆左能 使乃家礼婆 宇礼之美登 安我麻知刀敷尓 於餘豆礼能 多波許登等可毛 波之伎余思 奈弟乃美許等 奈尓之加母 時之波安良牟乎 波太須酒吉 穂出秋乃 芽子花 尓保敝流屋戸乎 <言斯人為性好愛花草花樹而多植於寝院之庭 故謂之花薫庭也> 安佐尓波尓 伊泥多知奈良之 暮庭尓 敷美多比良氣受 佐保能宇知乃 里乎徃過 安之比紀乃 山能許奴礼尓 白雲尓 多知多奈妣久等 安礼尓都氣都流 <佐保山火葬 故謂之佐保乃宇知乃佐刀乎由吉須疑>

      (大伴家持 巻十七 三九五七)

 

≪書き下し≫天離(あまざか)る 鄙(ひな)治(をさ)めにと 大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに 出でて来(こ)し 我れを送ると あをによし 奈良山(ならやま)過ぎて 泉川(いづみがは) 清き河原(かはら)に 馬留(とど)め 別れし時に ま幸(さき)くて 我(あ)れ帰り来(こ)む 平らけく 斎(いは)ひて待てと 語らひて 来(こ)し日の極(きは)み 玉桙(たまほこ)の 道をた遠(どほ)み 山川(やまかは)の へなりてあれば 恋(こひ)しけく 日(け)長きものを 見まく欲(ほ)り 思ふ間(あひだ)に 玉梓(たまづさ)の 使(つかひ)の来(け)れば 嬉(うれ)しみと 我(あ)が待ち問(と)ふに およづれの たはこととかも はしきよし 汝弟(なおと)の命(みこと) なにしかも 時しはあらむを はだすすき 穂に出(い)づる秋の 萩(はぎ)の花 にほへる宿を <言ふこころは、このひととなり、花草花樹を好愛(め)でて多(さは)に寝院の庭に植ゑたり。ゆゑに「花にほへる庭(やど)」といふ> 朝(あさ)庭(には)に 出で立ち平(なら)し 夕(ゆふ)庭(には)に 踏(ふ)み平(たひら)げず 佐保(さほ)の内の 里を行き過ぎ あしひきの 山の木末(こぬれ)に 白雲に 立ちたなびくと 我(あ)れに告(つ)げつる <佐保山に火葬す。ゆゑに「佐保の内の里を行き過ぎ」といふ>

 

(訳)都離れた遠い鄙(ひな)の国を治めるためにと、大君の仰せのままに出かけて来たわれらを見送るとて、国境の奈良山も通り過ぎて、泉川の清らかな河原に馬を駐(と)めて別れたその時に、無事で私は帰って来よう、お前も変わりなく、身を慎んで無事を祈りながら待っていておくれとねんごろに契(ちぎ)ってやって来たその日から今日まで、道はずいぶん遠いことだし、山や川があいだを隔てているものだから、恋しさは日を重ねてつのるばかりで、ああ一度顔を見たいと思っているところへ、待ち遠しい使いが来たので、何と嬉しいことかと私が待ちかまえて尋ねたところ、事もあろうに人惑(まど)わしの空言(そらごと)というのか、ああいとしい我が弟よ、いったいどんな気持で、ほかの時はいくらでもあろうに、すすきが穂を出す秋の、萩の花が咲き匂っている庭、その庭<こううたったのは、この人は生来花草や花樹が大好きで、いっぱい母屋(おもや)の庭に植えていたからだ。それゆえ「花薫(にほ)へる庭(やど)」と言う>、そなたは、朝(あさ)の庭に出で立って踏み平(なら)すことも、夕(ゆうべ)の庭に立って往(い)ったり来たりすることもせず、佐保の内の家里を通り過ぎ、高い山の梢(こずえ)に白雲になびいている、などと、どうして私に報(しら)せてよこしたのか。<佐保山で火葬した。それゆえ「佐保の内の 里を行き過ぎ」と言う。>(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ちやうせい【長逝】[名](スル):死ぬこと。永眠。逝去。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)まく【任く】他動詞:①任命する。任命して派遣する。遣わす。②命令によって退出させる。しりぞける。 ※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意

(注)まにまに【随に】分類連語:①…に任せて。…のままに。▽他の人の意志や、物事の成り行きに従っての意。②…とともに。▽物事が進むにつれての意。 ⇒参考 名詞「まにま」に格助詞「に」の付いた語。「まにま」と同様、連体修飾語を受けて副詞的に用いられる。(学研)

(注)奈良山 分類地名:今の奈良市の北方の丘陵。この山を越える奈良坂は古代から交通の要路であった。「平城山」とも書く。(学研)

(注)泉川 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の京都府の南部を流れて淀川(よどがわ)に注ぐ木津川の古名。「泉(いづみ)」の地を流れるのでこの名がある。 ⇒参考 (1)平安時代の女流文学に、初瀬詣(はつせもう)での折にこの川の流れがしばしば描かれる。(2)和歌では「いつ見」や「出(い)づ」にかけたり、導いたりして用いることが多い。(学研)

(注)たひらけし【平らけし】形容詞:穏やかだ。無事だ。(学研)

(注)きはみ【極み】名詞:(時間や空間の)極まるところ。極限。果て。(学研)

(注の注)来し日の極み:別れて来た日からこの方。(伊藤脚注)

(注)とほみ【遠み】:遠いので。 ※派生語。 ⇒なりたち 形容詞「とほし」の語幹+接尾語「み」(学研)

(注の注)道をた遠み:道は遠いことだし。タは接頭語。(伊藤脚注)

(注)へなる【隔る】自動詞:隔たっている。離れている。(学研)

(注)たまずさ【玉梓・玉章】⇒たまづさ【玉梓・玉章】名詞;①使者。使い。②便り。手紙。消息。 ⇒参考 「たま(玉)あづさ(梓)」の変化した語。便りを運ぶ使者は、そのしるしに梓の杖を持ったという。(学研)

(注)たまづさの【玉梓の・玉章の】分類枕詞:手紙を運ぶ使者は梓(あずさ)の枝を持って、これに手紙を結び付けていたことから「使ひ」にかかる。また、「妹(いも)」にもかかるが、かかる理由未詳。(学研)

(注)およづれ【妖・逆言】名詞:「妖言(およづれごと)」の略。人をまどわすことば。(学研)

(注)汝弟の命:「汝」は親愛の接頭語、「命」は尊称。(伊藤脚注)

(注)なにしかも【何しかも】[連語]:「なにしか」を強めた言い方。なんでまあ…か。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)はだすすき【はだ薄】名詞:語義未詳。「はたすすき」の変化した語とも、「膚薄(はだすすき)」で、穂の出る前の皮をかぶった状態のすすきともいう。(学研)

(注の注)はだすすき【はだ薄】分類枕詞:すすきの穂の意から「穂」「末(うれ)(=穂の先)」「うら」にかかる。(学研)

(注)寝院:住居の正殿(伊藤脚注)

 

 短歌二首もみてみよう。

 

◆麻佐吉久登 伊比氐之物能乎 白雲尓 多知多奈妣久登 伎氣婆可奈思物

       (大伴家持 巻十七 三九五八)

 

≪書き下し≫ま幸(さき)くと言ひてしものを白雲に立ちたなびくと聞けば悲しも

 

(訳)達者でおれと、あれほど言っておいたのに、白雲になってたなびいていると聞くのは、せつない。(同上)

 

 

◆可加良牟等 可祢弖思理世婆 古之能宇美乃 安里蘇乃奈美母 見世麻之物能乎

      (大伴家持 巻十七 三九五九)

 

≪書き下し≫かからむとかねて知りせば越(こし)の海(うみ)の荒礒(ありそ)の波も見せましものを

 

(訳)こんなことになると前々からわかっていたなら、この越の海の、荒磯にうち寄せる波でも見せてやるのだったのに。(同上)

 

左注は、「右天平十八年秋九月廿五日越中守大伴宿祢家持遥聞弟喪感傷作之也」<右は、天平(てんびやう)十八年の秋の九月の二十五日に、越中守大伴宿禰家持、遥(はる)かに弟の喪(も)を聞き、感傷(かな)しびて作る>である。

 

 

 大伴書持の歌は、万葉集では十二首が収録されている。

 みてみよう。

 

大伴家持が妾を亡くした時に詠んだ歌に和(こた)えて書持も歌を詠んでいる。

書持の題詞は、「弟大伴宿祢書持即和歌一首」<弟(おとひと)大伴宿禰書持(ふみもち)、即(すなは)ち和(こた)ふる歌一首>である。

 

◆長夜乎 獨哉将宿跡 君之云者 過去人之 所念久尓

     (大伴書持 巻三 四六三)

 

≪書き下し≫長き夜(よ)をひとりや寝(ね)むと君が言へば過ぎにし人の思ほゆらくに

 

(訳)「秋の夜長をどのようにして一人寝ることか」などとあなたがおっしゃると、私まで亡くなったあの方が思い出されて、やりきれなくなるではありませんか。(同上)

 

家持が、「今よりは秋風寒く吹きなむをいかにかひとり長き夜(よ)を寝(ね)む(巻三 四六二)」と詠んだ歌に和したものである。ちなみに家持の歌の題詞は、「十一年己卯夏六月大伴宿祢家持悲傷亡妾作歌一首」<十一年己卯(つちのとう)の夏の六月に、大伴宿禰家持、亡妾(ぼうせふ)を悲傷(かな)しびて作る歌一首>である。

 

 家持の四六二、四六四歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1051)」で紹介している。

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題詞は、「大伴書持歌二首」<大伴書持が歌二首>である。

 

◆我屋戸尓 月押照有 霍公鳥 心有今夜 来鳴令響

      (大伴書持 巻八 一四八〇)

 

≪書き下し≫我がやどに月おし照れりほととぎす心あれ今夜(こぞ)来鳴き響(とよ)もせ

 

(訳)我が家の庭に月がくまなく照っている。時鳥よ、思いやりがあってほしい。この月のよい夜こそ、やって来て鳴き立てなさい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 

◆我屋戸前乃 花橘尓 霍公鳥 今社鳴米 友尓相流時

      (大伴書持 巻八 一四八一)

 

≪書き下し≫我がやどの花橘(はなたちばな)にほととぎす今こそ鳴かめ友に逢へる時

 

(訳)我が家の庭の花橘に来て、時鳥よ、さあ、今こそ鳴いておくれ。友に逢っているこの時に。(同上)

(注)コソ・・・メは、ここは相手に対する希望・勧誘を表す。(伊藤脚注)

 

 

◆足引乃 山之黄葉 今夜毛加 浮去良武 山河之瀬尓

      (大伴書持 巻八 一五八七)

 

≪書き下し≫あしひきの山の黄葉今日(こよひ)もか浮かび行くらむ山川(やまがは)の瀬に

 

(訳)あしひきの山からのもみじ葉、このもみじ葉は、今夜もまた、はらはらと散っては浮かんで流れていることであろう。山あいの川の瀬の上に(同上)

 

左注は、「右一首大伴宿祢書持」<右の一首は大伴宿禰書持(ふみもち)>である。

一五八一から一五九一歌の歌群の題詞は、「橘朝臣奈良麻呂結集宴歌十一首」<橘朝臣奈良麻呂(たちばなあそみならまろ)、集宴を結ぶ歌十一首>である。

 

 この歌および歌群の歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その939)」で紹介している。

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 次に、書持が「梅花の歌三十二首」に追和した歌をみてみよう。

三九〇一から三九〇六歌の歌群の、題詞は、「追和大宰之時梅花新歌六首」<大宰(だざい)の時の梅花に追(お)ひて和(こた)ふる新(あらた)しき歌六首>である。

題詞にある「大宰之時梅花(歌)」とは、序から「令和」が名づけられた「梅花歌卅二首」(八一五~八四六歌)である。

 

 書き下しと訳のみを掲載します。

 

◆み冬継(つ)ぎ春は来(きた)れど梅の花君にしあらねば招(を)く人もなし

      (大伴書持 巻十七 三九〇一)

 

(訳)寒い冬に引き続いて、お言葉どおりようやく春はやってきましたが、待ちに待った梅の花を、今時は、風流なあなた様以外には、招き寄せる人もおりません。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 

梅の花み山としみにありともやかくのみ君は見れど飽(あ)かにせむ

      (大伴書持 巻十七 三九〇二)

 

(訳)梅の花よ、たとえ、生い茂る山のように一杯に咲いたとしても、あなたは、あはりこんなに見ても見ても見飽きることはないでしょう。(同上)

 

◆春雨(はるさめ)に萌(も)えし柳か梅の花ともに後(おく)れぬ常(つね)の物かも

      (大伴書持 巻十七 三九〇三)

 

(訳)この柳は、春雨に誘われて萌え出た柳なのか。それとも、梅の花が咲き揃うにつれて後れじと萌え出す、例のとおりの柳なのか。(同上)

 

 

梅の花いつは折らじといとはねど咲きの盛りは惜(を)しきものなり

     (大伴書持 巻十七 三九〇四)

 

(訳)梅の花、この美しい花をこれこれの時は折るまいなどと選り好みをするわけではないが、咲きにおう真っ盛りの時には、とりわけ折ってしまうのが惜しいものだ。(同上)

 

 

◆遊ぶ内(うち)の楽しき庭に梅柳折りかざして思ひなみかも

       (大伴書持 巻十七 三九〇五)

 

(訳)心許して遊ぶ一座のその楽しい庭で、梅や柳を折りかざして遊んだなら何の心残りもないので、「梅や柳を折りかざして遊んだあとは散ってしまってもかまわぬ」などとおっしゃるのだろうか。(同上)

 

◆御園生(みそのふ)の百木(ももき)の梅の散る花し天(あめ)に飛び上(あ)がり雪と降りけむ

     (大伴書持 巻十七 三九〇六)

 

(訳)「天から流れ来る雪」とは、きっとお庭の百木(ももき)の梅の散る花、その花びらが天空に舞い上がって雪となって降ったものなのでありましょう。(同上)

 

左注は、「右十二年十二月九日大伴宿祢書持作」<右は、十二年の十二月の九日に、大伴宿禰書持(おほとものすくねふみもち)が作る>である。

 

 この歌群についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その459)」で紹介している。

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題詞は、「詠霍公鳥歌二首」<霍公鳥(ほととぎす)を詠(よ)む歌二首>である。

 

◆多知婆奈波 常花尓毛歟 保登等藝須 周無等来鳴者 伎可奴日奈家牟

      (大伴書持 巻十七 三九〇九)

 

≪書き下し≫橘は常花にもが霍公鳥住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ

 

(訳)橘は、年中咲き盛りの花であったらなあ。そうなれば取り合わせの時鳥が橘に棲みつこうとしてやって来るはず、そうなったら、時鳥の声を聞かない日はないだろう。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 

◆珠尓奴久 安布知乎宅尓 宇恵多良婆 夜麻霍公鳥 可礼受許武可聞

      (大伴書持 巻十七 三九一〇)

 

≪書き下し≫玉に貫(ぬ)く楝(あふち)を家に植ゑたらば山ほととぎす離(か)れず来(こ)むかも

 

(訳)薬玉(くすだま)として糸に貫く楝、その楝を我が家の庭に植えたならば、山に棲む時鳥がしげしげとやって来て鳴いてくれることだろうか。(同上)

 

左注は、「右四月二日大伴宿祢書持従奈良宅贈兄家持」<右は、四月の二日に、大伴宿禰書持、奈良(なら)の宅(いへ)より兄家持に贈る>である。

 

 書持は、甘えん坊の弟だったのかもしれない。歌は、どちらかというと子供っぽい、「・・・だったら、いいのになあ」的な歌が多い。

 家持はかわいがっていたのであろう。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「万葉歌碑めぐりマップ」 (高岡地区広域圏事務組合)