万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1779)―高松市香南町 冠纓神社―万葉集 巻十五 三六六八

●歌は、「大君の遠の朝廷と思へれど日長くしあれば恋ひにけるかも」である。

高松市香南町 冠纓神社万葉歌碑(阿倍継麻呂)

●歌碑は、高松市香南町 冠纓神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「到筑前國志麻郡之韓亭舶泊經三日於時夜月之光皎々流照奄對此華旅情悽噎各陳心緒聊以裁歌六首」<筑前(つくしのみちのくち)の国の志麻(しま)の郡(こおり)の韓亭(からとまり)に到り、舶泊(ふなどま)りして三日を経ぬ。時に夜月(やげつ)の光、皎々流照(けうけうりうせう)す。奄(ひさ)しくこの華(くわ)に対し、旅情悽噎(せいいつ)す。おのもおのも心緒(しんしよ)を陳(の)べ、いささかに裁(つく)る歌六首>である。

(注)【筑前国】ちくぜんのくに:旧国名。筑州。現在の福岡県北西部。古くは筑紫(つくし)国と呼ばれたものが,7世紀末の律令制成立とともに筑前筑後の2国に分割された。当初は筑紫前(つくしのみちのくち)国と呼ばれた。(コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版より)

(注)韓亭:福岡市西区宮浦付近。「亭」は船の停泊する所、またはそこの宿舎。(伊藤脚注)

(注)けうけう【皎皎】形動: 白々と光り輝くさま。光を反照させるさま。こうこう。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)奄しくこの華に対し:「奄しく」は、静かにじっと、「華」は、月光。(伊藤脚注)

(注)悽噎:悲しみで一杯。(伊藤脚注)

 

◆於保伎美能 等保能美可度登 於毛敝礼杼 氣奈我久之安礼婆 古非尓家流可母

        (阿倍継麻呂 巻十五 三六六八)

 

≪書き下し≫大君(おほきみ)の遠(とほ)の朝廷(みかど)と思へれど日(け)長くしあれば恋ひにけるかも

 

(訳)大君の遠の官人(つかさびと)であるがゆえに、遣新羅使(けんしらきし)としての本来のありようを保たなければと考える。だが、旅のある日があまりにも久しいので、その気持ちを貫くこともかなわずに、つい都が恋しくなってしまうのだ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右一首大使」<右の一首は大使>である。

 

 三六六八歌について、伊藤 博氏は、同歌の脚注で「公の立場をわきまえながらも家恋しさを抑えかねる一行の心情を代表する冒頭歌。」と書かれている。

 

 同じような思いで「ますらをと思える我」と私情に流される己の心情を詠った歌については。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1367)」で紹介している。

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三六六九から三六七三歌をみてみよう。

 

◆多妣尓安礼杼 欲流波火等毛之 乎流和礼乎 也未尓也伊毛我 古非都追安流良牟

      (壬生宇太麻呂 巻十五 三六六九)

 

≪書き下し≫旅にあれど夜(よる)は火(ひ)燈(とも)し居(を)る我(わ)れを闇(やみ)にや妹が恋ひつつあるらむ

 

(訳)こんなに苦しい旅の身空ではあるけれども、夜には燈火のもとにいることのできる私なのに、暗闇の中で、あの人は、今頃じっとこの私に恋い焦がれていることであろうか。(同上)

(注)壬生宇太麻呂(みぶのうだまろ):?-? 奈良時代の官吏。天平(てんぴょう)8年(736)遣新羅(しらぎ)使の大判官として渡海。そのときの歌が「万葉集」巻15に5首みえる。翌年帰国し,のち右京亮,但馬守(たじまのかみ)をへて玄蕃頭,外従五位下。名は宇多(陁)麻呂と(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注の注)大判官:副使に次ぐ官。ここは従六位上壬生宇太麻呂。(伊藤脚注)

(注)火燈し居る我れを:燈火の中にいることのできる私なのに・

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1234)」で紹介している。

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◆可良等麻里 能許乃宇良奈美 多々奴日者 安礼杼母伊敝尓 古非奴日者奈之

      (遣新羅使 巻十五 三六七〇)

 

≪書き下し≫韓亭(からとまり)能許(のこ)の浦波立たぬ日はあれども家(いへ)に恋ひぬ日はなし

 

(訳)韓亭(からとまり)能許(のこ)の浦の波、この波が立たない日はあったとしても、私が家を恋しく思わない日はない。(同上)

(注)能許:博多湾内の能古島。(伊藤脚注)

 

 

◆奴婆多麻乃 欲和多流月尓 安良麻世婆 伊敝奈流伊毛尓 安比弖許麻之乎

      (遣新羅使 巻十五 三六七一)

 

≪書き下し≫ぬばたまの夜(よ)渡る月にあらませば家なる妹に逢(あ)ひて来(こ)ましを

 

(訳)私が夜空を渡る月ででもあったなら、家にいるあの人に逢いに行って、またここに帰ってくることができように。(同上)

 

 

◆比左可多能 月者弖利多里 伊刀麻奈久 安麻能伊射里波 等毛之安敝里見由

       (遣新羅使 巻十五 三六七二)

 

≪書き下し≫ひさかたの月は照りたり暇(いとま)なく海人(あま)の漁(いざ)りは燈(とも)し合へり見(み)ゆ

 

(訳)大空に月は皎々と照りわたっている。片や、絶え間もなく、海人たちの漁火

は海の上で点々と燈し合っている。(同上)

(注)「月」:前歌の「月」を承ける。前二首から転じて旅景への哀愁。(伊藤脚注)

 

 

◆可是布氣婆 於吉都思良奈美 可之故美等 能許能等麻里尓 安麻多欲曽奴流

       (遣新羅使 巻十五 三六七二)

 

≪書き下し≫風吹けば沖つ白波畏(かしこみ)みと能許(のこ)の亭(とまり)にあまた夜(よ)ぞ寝(ね)る

 

(訳)風が強く吹くので、沖の白波の恐ろしさに、能許の亭にこうして幾晩も幾晩も独り寝をしているのだ。(同上)

 

「公の立場をわきまえながらも家恋しさを抑えかねる一行の心情」を大使自ら詠い、そこに連帯感、使命感を逆に高めているとも考えられる。このような歌を記録することも万葉集万葉集たる所以であろう。

 

 

 結構広い境内を抱える立派な神社である。歌碑を探すも見つからず。殺虫剤を噴霧している方がいらっしゃったので聞いてみた。社殿の脇から奥に進めば池があるのでその付近では、と教えていただく。

池の近くの分社参道脇の歌碑

 祝詞が流れてくる厳かな雰囲気のなか、池の方へ。分社の社の手前左手に歌碑が建てられていた。サヌカイトの歌碑である。

 

 車に戻ろうと歩いていると、先ほどの方を見承けたので、お礼を申し上げた。神社をあちこち巡っておられるのですか、との質問があったので、万葉歌碑を巡っている旨お話をした。

 すると、ご親切に、よかったら、神社のパンフレットがありますからもらって下さい、とのこと。社務所に戻られ、中からわざわざ持ってきていただいたのである。(殺虫剤を噴霧されていたので、業者の方と思っていたが、神社の関係者であったのだ。失礼しました!)

 このパンフレットを帰ってから見て、同神社に巻十五の歌碑が建てられているいわれが分かった。

 同神社には、平安時代後期の万葉集の古写本(天治本萬葉集)を所蔵しているのである。パンフレットには「万葉集全二十巻のうち、『天治本』以前の古写本にはない歌など巻十五の五十八首が、流麗な筆致で書かれており、万葉仮名をまだ完全に読解できなかった当時の苦心の模様も伝え、万葉集研究の貴重な資料ともなるものである。(中略)三六八八番から三七二五番までの遣新羅使節の歌と、中臣宅守の贈答歌などを載せている。(後略)」と書かれている。

 歌碑の側面下部に「昭和五十六年十一月二十日天治本萬葉集巻子発見」と刻されている。知っていれば当然写真に写すのであるが・・・。

 

 歌碑の正面左下部には、「冠纓神社天治本萬葉集巻頭ノ一首 遣新羅大使阿倍朝臣継麻呂瀬戸内ヲ舟航筑前国韓亭ニ到りて詠ズ 伊藤 博」と刻されている。

 

 境内の狛犬に沢山の紐がかけられている。

かんえい【冠纓】を検索すると、「冠(かんむり)のひも。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)」とある。この紐の正体は冠の紐である。

神社名碑と楼門

社殿


 

 

歌碑に関する予習をもっともっとすべきと反省した次第である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「冠纓(かんえい)神社香川県香南町」(同神社パンフレット)」