万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1933)―可児市久々利 泳宮古蹟―万葉集 巻十三 三二四二

●歌は、「ももきね 美濃の国の高北の泳の宮に日向ひに行靡闕矣ありと聞きて我が行く道の奥十山美濃の山靡けと人は踏めどもかく寄れと人は突けども心なき山の 奥十山美濃の山」である。

可児市久々利 泳宮古蹟万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、可児市久々利 泳宮古蹟にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆百岐年 三野之國之 高北之 八十一隣之宮尓 日向尓 行靡闕矣 有登聞而 吾通道之 奥十山 三野之山 靡得 人雖跡 如此依等 人雖衝 無意山之 奥礒山 三野之山

       (作者未詳 巻十三 三二四二)

 

≪書き下し≫ももきね 美濃(みの)の国の 高北(たかきた)の 泳(くくり)の宮に 日向(ひむか)ひに 行靡闕矣 ありと聞きて 我(わ)が行く道の 奥十山(おきそやま) 美濃の山 靡(なび)けと 人は踏(ふ)めども かく寄れと 人は突けども 心なき山の 奥十山 美濃の山             

 

(訳)ももきね美濃の国の、高北の泳(くくり)の宮に、日向かいに行靡闕牟 あると聞いて、私が出かけて行く道の行く手に立ちはだかる奥(おきそ)十山、美濃の山よ。靡き伏せと人は踏むけれども、こちらへ寄れと人は突くけれども、何の思いやりもない山だ、この奥十山、美濃の山は。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ももきね【百岐年】[枕]:「美濃(みの)」にかかる。語義・かかり方未詳。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)泳の宮:岐阜県可児市久々利付近にあったという景行天皇の宮。(伊藤脚注)

(注)原文の「八十一隣之宮」:八十一=九九、書き手の遊び心である。

(注)ひむかひ【日向かひ】:日のさす方へ向かうこと。一説に、西の方ともいう。(goo辞書)

(注)行靡闕牟:定訓がない。美しい女性の意を想定したいところ。(伊藤脚注)

(注)奥十山:所在未詳。(伊藤脚注)

(注)かく寄れと:片側に寄って道をあけろと。(伊藤脚注)

(注)心なき山:びくともせず全く心ない山だ。一首、妻問いのために美濃路を行く男の思い。美濃の古謡か。(伊藤脚注)

 

この歌は、前稿(その1932)で紹介した可児郷土歴史館の歌碑の歌と同じである。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 可児市HPに「泳宮」について、「久々利には、古代の史跡として古くから語り継がれてきた泳宮がある。

「泳宮古蹟」

日本書紀』の『景行天皇(第12代天皇)四年春二月甲子條』によると、景行天皇が美濃に行幸して滞在した際、八坂入彦命の娘で美人の弟姫(おとひめ)を見初め、池を造り、鯉を放って弟姫を呼び寄せた。弟姫は、自分より美しく気立ての良い姉の八坂入媛(やさかいりひめ)がふさわしいと、姉に后の座を譲った。八坂入媛を后にし、七男と六女を産み、第1が稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと:第13代天皇)という。この記述にある、池を造り弟姫と出会った場所が泳宮であるとされている。(後略)」と書かれている。

「泳宮」説明案内碑

「泳宮 市史跡」説明案内碑

 

 

可児市久々利 可児郷土歴史館・万葉の庭→同町 泳宮古蹟■

 郷土歴史館から歩いて数分の所に泳宮古蹟がある。ここは、景行天皇の仮宮であったと「日本書紀」に記されている。この地で八坂入彦の姫・入媛(いりひめ)を見初め、妃にしたと伝えられている。

 泳宮公園の一角に「泳宮古蹟」がある。

公園には「轇轕蔵(こうかつくら)」(山車を保管する蔵)や市指定天然記念物の「フウの木」など派手なものがいろいろとある。

「轇轕蔵(こうかつくら)」

山車の説明案内板

市指定天然記念物「ふう」の木

「ふう」の説明案内板


公園の一角にまさにひっそりと玉垣にかこまれた宮跡があり、その中に歌碑が立てられていた。時代を感じさせる歌碑である。

なぜかその前に灯明台や神棚用の湯のみが置かれている。不思議な空間であった。歌碑であるが墓標のような扱いになっている。「くくり姫」と言い伝えられている弟媛をお祀りする気持ちからだろうか。

「泳宮」遠望

万葉歌碑に供えられた神器など

 

 景行天皇(けいこうてんのう)については、「コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」に次の様に書かれている。

 「皇室系譜に第12代と伝える天皇。『日本書紀』によれば、国風諡号(しごう)は大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと)。垂仁(すいにん)天皇の第3子で、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)である。景行天皇元年に即位して播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)(『古事記』は父を吉備臣(きびのおみ)らの祖若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)とする)を皇后とし、日本武尊(やまとたけるのみこと)をもうけたが、同52年に皇后が没したため、妃の一人で皇太子稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)(成務(せいむ)天皇)の生母八坂入彦皇子(やさかいりひこのみこ)の女(むすめ)八坂入媛(やさかいりひめ)を皇后にたてた。この間、同4年に纏向(まきむく)(奈良県桜井市穴師(あなし))の日代宮(ひしろのみや)に都を営み、同12年より19年まで九州に遠征して熊襲(くまそ)を平定し、日本武尊に命じて同27年にふたたび熊襲を、同40年に東方の蝦夷(えみし)を討伐させた。さらに同56年には彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)の子御諸別(みもろわけ)王を用いて東国経略に成功した。そして同58年、近江(おうみ)国の志賀(しが)(滋賀県滋賀郡・大津市)の高穴穂宮(たかあなほのみや)に移り、在位60年、106歳(一説に143歳、『古事記』では137歳)で没し、山辺道上陵(やまのべのみちのかみのみさざき)に葬られたという。また皇子女多く、『古事記』は77子を諸国に封じたと伝えるが、これは熊襲蝦夷征討の伝承とともに、大和(やまと)王権成立期の国内征服の記憶が伝説化されたものとみなされる。」

天皇系図」説明案内板

 景行天皇陵は「桜井市との境に所在します。崇神天皇陵から山の辺の道(南)コースを南へ約700m進むと、景行天皇陵の東側にたどり着きます」(天理観光ガイド・天理市観光協会HP)とある。

 機会を見つけて訪れてみたいものである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」

★「天理観光ガイド」 (天理市観光協会HP)

★「可児市HP」