令和元年11月30日、都内某大学で特別講義をする機会(万葉集がテーマではなく、プラスチックに関する講義です)があったので、講義のはじまる前の時間を利用して、めぐろ区民キャンパスと文京区小日向の鷺坂の万葉歌碑を巡った。
箱根越えの万葉歌碑巡りである。
このような機会をとらえて東国の万葉歌碑巡りを考えていたが、コロナ騒動で講義もリモート方式に切り替えられ機会を失ってしまった。
東国の万葉歌碑巡りは、今後の大きな課題である。
めぐろ区民キャンパスは、1991年に八王子市に移転した都立大学(現在の首都大学東京)の跡地が整備され公園となっている。ホールや図書館などもある。 東急東横線の駅名は変わらず「都立大学前」である。そこから歩いて5,6分のところにあった。
万葉歌碑は、同キャンパス北西の角のコーナー的な広場に三基あった。解説碑を含め円形に作られていた。これらは、当時、荏原郡と呼ばれた目黒区を含む東京西南部の地域の防人とその妻によって詠まれたものである
みていこう。
参考:目黒区HPめぐろ区民キャンパス「万葉歌碑」
https://www.city.meguro.tokyo.jp/smph/shisetsu/shisetsu/kumin_campus/manyokahi.html
<東京都>
■東京都目黒区 目黒区民キャンパス万葉歌碑<巻二十 四四一五>■
●歌をみていこう。
◆志良多麻乎 弖尓刀里母之弖 美流乃須母 伊弊奈流伊母乎 麻多美弖毛母也
(物部歳徳 巻二十 四四一五)
≪書き下し≫白玉(しらたま)を手に取(と)り持(も)して見るのすも家(いへ)なる妹(いも)をまた見てももや
(訳)白玉をこの手に取り持ってしげしげ見るように、家に待つ人、いとしいあの子を、またしげしげ見たいものだ。
(注)持して:持ちての東国形。
(注)のす ( 接尾 ):〔「如(な)す」の上代東国方言〕 ※名詞、あるいは動詞の連体形に付いて、…(の)ような、…(の)ように、の意を表す。 (weblio辞書 三省堂大辞林第三版)
(注)見てももや:「ても」は「てむ」の東国形。「もや」は詠嘆の終助詞。
左注は、「右一首主帳荏原郡物部歳徳」<右の一首は主帳(しゆちやう)荏原郡(えばらのこほり)の物部歳徳もののべのとしとこ)>である。
(注)主帳:郡の四等官。公文に関する記録等を司る。
■東京都目黒区 目黒区民キャンパス万葉歌碑<巻二十 四四一六>■
●歌をみていこう。
◆久佐麻久良 多比由苦世奈我 麻流祢世婆 伊波奈流和礼波 比毛等加受祢牟
(妻椋椅部刀自賣 巻二十 四四一六)
≪書き下し≫草枕(くさまくら)旅行く背(せ)なが丸寝(まるね)せば家(いは)なる我は紐(ひも)解(と)かず寝(ね)む
(訳)草を枕の旅に行くあなたがごろ寝をするのなら、家に待つ私は、着物の紐を解かずに寝よう。(同上)
(注)せな【夫な】名詞:あなた。▽女性が、夫または恋人を親しんで呼ぶ語。「せなな」「せなの」「せろ」とも。 ※「な」は親愛の意を表す接尾語。
(注)まるね【丸寝】名詞:「まろね」に同じ。:衣服を着たまま寝ること。独り寝や旅寝の場合にいうこともある。(学研)
左注は、「右一首妻椋椅部刀自賣」<右の一首は妻(め)の椋椅部刀自売(くらはしべのとじめ)>である。
四四一五歌は夫の、四四一六歌は妻の歌である。
■東京都目黒区 目黒区民キャンパス万葉歌碑<巻二十 四四一八>■
●歌をみていこう。
◆和我可度乃 可多夜麻都婆伎 麻己等奈礼 和我弖布礼奈ゝ 都知尓於知母加毛
(物部廣足 巻二十 四四一八)
≪書き下し≫吾が門の片山椿(かたやまつばき)まこと汝(な)れ我が手触(ふ)れなな地(つち)に落ちもかも
(訳)おれの家の門口に近くの片山椿よ、本当にお前、お前さんにはおれは手を触れないでいたい。しかしこのままにしておいたのでは、地に落ちてしまうかな。(同上)
(注)吾が門の片山椿(かたやまつばき):上二句は、近所に住む「女」の喩え。(伊藤脚注)
(注)かたやま【片山】:一方が崖(がけ)になっている山。一説に、孤立した山。 (weblio辞書 三省堂大辞林第三版)
(注)なな 分類連語:…ないで。…(せ)ずに。 ※ 活用語の未然形に接続する。上代の東国方言。
左注は、「右一首荏原郡上丁物部廣足」<右の一首は荏原郡(えばらのこほり)の上丁(じゃうちゃう)物部広足(もののべのひろたり)>である。
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四四一五歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その363)」で、四四一六歌は、同「同(その364)」、四四一八歌は、同「同(その365)」で紹介している。
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■東京都文京区小日向 鷺坂万葉歌碑<柿本人麻呂歌集>■
●歌をみていこう。
◆山代 久世乃鷺坂 自神代 春者張乍 秋者散来
(作者未詳 巻九 一七〇七)
≪書き下し≫山背(やましろ)の久世(くせ)の鷺坂(さぎさか)神代(かみよ)より春は萌(は)りつつ秋は散りけり
(訳)山背の久世の鷺坂、この坂では、遠い神代の昔から、春には木々が芽吹き、秋には散って来たのである。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)はる【張る】①(氷が)はる。一面に広がる。②(芽が)ふくらむ。出る。芽ぐむ。(学研)ここでは②の意
(注)さぎざか【鷺坂】: 京都府城陽市久世を南北に走る旧大和街道の坂。坂のある台地が鷺坂山であり、丘上に久世神社がある。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
題詞は、「鷺坂作歌一首」<鷺坂にして作る歌一首>である。
文京区の碑の側にある案内板を読むと、この歌碑がここに立てられてことに納得がいくのである。
案内板には、次のように書かれている。
「この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守(くぜやまとのかみ)の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は、『久世山(くぜやま)』と呼んで今もなじんでいる。
この久世山も大正以降は住宅地となり、堀口大学(詩人・仏文学者 1892~1981)やその父で外交官の堀口九万一(号長城)も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の 三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけた『鷺坂』という坂名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。
足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は堀口九万一による。一面には万葉集からの引用で、他面にはその読み下しで『山城の久世の鷺坂神代より春ハ張りつつ、秋はちりけり』とある。
文学愛好者の発案になる『昭和の坂名』として異色な坂名といえる。文京区教育委員会 平成18年3月」
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その366)」で紹介している。
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京都府城陽市久世の歌碑については拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その195改)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「目黒区HP」