万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2492)―

●歌は、「あしひきの山道も知らず白橿の枝もとををに雪の降れれば」である。

茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森万葉歌碑(プレート)(柿本人麻呂歌集) 20230927撮影

●歌碑(プレート)は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足引 山道不知 白牫牱 枝母等乎ゝ乎 雪落者  或云 枝毛多和ゝゝ

      (柿本人麻呂歌集 巻十 二三一五)

 

 ≪書き下し≫あしひきの山道(やまぢ)も知らず白橿(しらかし)の枝もとををに雪の降れれば  或いは「枝もたわたわ」といふ

 

(訳)あしひきの山道のありかさえもわからない。白橿の枝も撓(たわ)むほどに雪が降り積もっているので。<枝もたわわに>(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)とををなり【撓なり】形容動詞:たわみしなっている。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)たわたわ【撓 撓】( 形動ナリ ):たわみしなうさま。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

 左注は、「右柿本朝臣人麻呂之歌集出也 但件一首 或本云三方沙弥作」<右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。ただし、件(くだり)の一首は、或本には「三方沙弥(みかたのさみ)が作」といふ>である。

(注)件(くだり)の一首は、二三一五歌をさしている。(伊藤脚注)

 

 

 この歌については、「橿」を詠った三首とともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2406)」で紹介している。

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(注)かし【樫・橿・櫧・檍】:〘名〙 ブナ科ナラ属の常緑樹。アラカシ、シラカシ、イチイガシ、アカガシ、ツクバネガシ、ウラジロガシなどの総称で、多くは高木。本州の宮城県以南の山地に自生し、人家付近にも植えられる。葉はやや厚く、多くは縁に鋸歯(きょし)があり、柄をもち互生する。若葉にはふつう、毛がある。四~五月頃、新枝の基部に尾状の雄花穂を、また枝先の葉の付け根に一~三個の雌花序をつける。果実は楕円状球形で、半分ほどまで椀状の殻斗(かくと)に包まれたどんぐり状果である。材は堅く弾性があり、器具材、建築材、船舶材または炭材などに用いられる。かしい。かしのき。(コトバンク  精選版 日本国語大辞典

 

 

 

 左注に「三方沙弥が作」と書かれているが、三方沙弥の歌七首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その198)」で紹介している。

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 「とををなり」というフレーズが気になり調べてみた。一五九五歌に「とをを」が、四〇五八歌に「とを」が使われている。

みてみよう。

 

題詞は、「大伴宿祢像見歌一首」<大伴宿禰像見(おほとものすくねかたみ)が歌一首>である。

 

◆秋芽子乃 枝毛十尾二 降露乃 消者雖消 色出目八方

       (大伴像見 巻八 一五九五)

 

≪書き下し≫秋萩の枝もとををに置く露の消なば消ぬとも色に出でめやも

 

(訳)秋萩の枝も撓(たわ)むばかりに置いている露、その露のように、この身が消えるなら消えてしまおうとも、胸のうちを面(おもて)に出したりするものか。(同上)

(注)上三句は序。「消なば」を起こす。(伊藤脚注)

(注)色に出でめやも:そぶりに表したりなどしようか。(伊藤脚注)

(注の注)めやも 分類連語:…だろうか、いや…ではないなあ。 ⇒なりたち:推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

 一五九五歌の「十尾」は垂れ下がった萩の枝を九尾の狐ではないが、十本の尾にみたて「十尾」とし「に」も「二」と書いている。そして「やも」も「八方」と数字を使っている。書き手の遊び心なのだろう。

 

 一五九五歌については、二三一五歌とともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1606)」で紹介している。

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 「とを」(四〇五八歌)もみてみよう。

 

◆多知婆奈能 登乎能多知婆奈 夜都代尓母 安礼波和須礼自 許乃多知婆奈乎

        (元正上皇 巻十八 四〇五八)

 

≪書き下し≫橘(たちばな)のとをの橘八(や)つ代(よ)にも我(あ)れは忘れじこの橘を

 

(訳)橘の中でもとくに枝も撓(たわ)むばかりに実をつけた橘、この橘をいつの世までも私は忘れはすまい。この見事な橘のことを。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)とをの橘:枝の撓む橘。(伊藤脚注)

(注の注)とををなり【撓なり】形容動詞:たわみしなっている。(学研)

(注)八つ代にも:いついつまでも。「八つ」はめでたい数の代表。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その982)」で紹介している。

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 山口仲美氏稿「奈良時代の擬音語・擬態語」(明治大学国際日本学部)によると、「『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』から擬音語・擬態語を抽出すると・・・六十五種類の語が抽出される。」と書かれており、「たわたわ(多和々々)枝のしなう様子…万葉集」「とををに(等乎々尓・十遠仁)枝のしなう様子…万葉集」が含まれている。

 さらに「次の二十五種類の奈良時代語が平安時代語に継承されているとみられる」とされ、「たわたわ」・「とをを」も継承されていた。

 そして「平安時代に継承された二十五種類の擬音語・擬態語は、その後どうなったのか?一つは、平安時代まで継承されたが、その後廃れてしまい、現代に伝わらなかった場合。二つは、平安時代のみならず、現代語にまで継承された場合である。」と分析されている。

 平安時代まで継承されたが、その後廃れてた九語に「とをを」は含まれており、現代語まで継承された十六種類の語に「たわたわ」が含まれていたのである。

 万葉集の歌に詠まれている擬声語や擬態語もこのような観点から見てみるのも面白い分析である。意識してみてみようと思う。

 

参考までに、「NHK放送文化研究所HP」に「『たわわに実る』の使い方」のコンテンツに次のように書かれているので紹介いたします。

「『たわわ』というのは擬態語で、動詞の『たわむ』の語幹の繰り返しである『たわたわ』から転じてできたことばとされています。『たわたわ』は、枝が重さできしむさまを表します。『たわむ』は漢字では『撓む』と書きます。『撓』は、『扌+蕘』の形声文字で、音符の『堯(ギョウ)』は、『弱』に似た意味を持ち、『しなやかにたわめる』の意味を表す漢字です(『新漢語林』)。『たわわ』は、かなり昔から使われていることばで、古くは古今和歌集(905-914)に、『折りて見ば落ちぞしぬべき秋萩の枝もたわわにおける白露<読み人知らず>』(折って見ようとするときっと落ちてしまうに違いない、秋萩の枝がたわむほどのこの白露は。)という歌があります。現代では、『たわわに実る』はもっぱら『リンゴ』や『ブドウ』などの木になる果物や『イネ』などの表現として使われているようです。」

 

言葉の使い方や変遷にも注意していかないと・・・。巷にはびこる新語や造語の運命や如何に、である。

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「奈良時代の擬音語・擬態語」 山口仲美氏 稿 (明治大学国際日本学部)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「NHK放送文化研究所HP」